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「なぜ」に対する私の基本位置――問い、確認、接続、判断、責任について

「なぜ」そのものを確認対象へ戻す
刑法第174条の公然わいせつ、刑法第175条のわいせつ物頒布等、AV出演被害防止・救済法、職業安定法第63条第2号その他をめぐって、社会では、すでに生じた現象や帰結を前にさまざまな「なぜ」が問われている。

そこでは、一般論、判例、学説、専門知、経験、政策目的などから理由が語られ、その一方で、判断、政策、制度設計、運用も現実に進んでいる。

しかし、私は、その理由をさらに一つ加える前に確認すべきことがあると考えている。

その「なぜ」は、実際の現実について成立している問いなのか。

問いが言葉として成立していることと、その問いが現実に存在した判断や原因を指していることは同じではない。

問いの中には、ある主体がある判断をしている、複数の制度が特定の関係にある、ある行為が一方では認められながら他方では制限されている、といった前提がすでに含まれていることがある。

その前提自体が確認されていなければ、その理由を説明する前に、まず問いそのものを現実へ戻して確認する必要がある。

結果があることと、原因が確認されていることは別である
判決、処分、規制、削除、停止その他の結果を確認できたとしても、それだけで、その結果が誰によって、何を対象として、どの資料を用い、何を選別・評価し、どの工程で判断され、どの制度上の位置を経て形成されたのかまで確認できたことにはならない。

結果が存在することと、その結果を生成した原因が確認されていることは別である。

したがって、私が不足していると考えるのは、「なぜ」に対するもう一つのもっともらしい「なぜなら」ではない。

その「なぜ」自体を現実へ接続し、本当にその問いが成立しているのかを確認する工程である。

原因について語るのであれば、その原因を結果から推測して置くのではなく、原因を生成した現実へどこまで接続できるのかを確認する必要がある。

誰が、何を対象とし、いつ、どの資料を用い、何を選び、何を除き、どのように評価し、どの工程で判断し、どの制度上の位置から結果へ接続したのか。

私にとって原因を扱うということは、結果を後から合理的に説明することではなく、こうした現実の生成過程へ接続することである。

現実へ接続すると、問いそのものが変わる
現実へ接続すれば、最初に存在した「なぜ」がそのまま残るとは限らない。

問いの前提が事実として確認されることもあれば、確認できないこともある。
複数の主体や工程が一つの問いにまとめられていたことが分かる場合もある。
一般論や第三者の説明によって前提が補われていたことが明らかになる場合もある。

さらに、それまで認識されていなかった別の欠落や構造が現れることもある。

その場合、最初の問いを維持すること自体を目的にはしない。

現実によって前提が変わるのであれば、問いも変える。

確認できたものは確認事実として扱い、確認できなかったものは確認できなかったものとして残し、外部から補われていた説明があれば確認事実から分離する。

その先に別の問題が現れたのであれば、そこで初めて、それを新しい分析対象として扱う。

「なぜ」という言葉を反復することではなく、その問いが指している現実が何であるかを確定することが先にある。

一般論と、個別現実の生成過程を分ける
これは、一般論、判例、学説、専門知を否定するという意味ではない。

それらには、それぞれ固有の機能がある。
制度を理解し、比較し、解釈し、仮説を形成するために必要となることもある。

ただし、後から合理的な説明を構成できることと、その説明が特定の個別現実で実際に作動した判断生成過程だったことを確認できることは別である。

特定の過去の判断について、その判断主体、使用資料、選別、評価、当てはめなどを確認できない場所へ一般論を置き、「実際にもこの理由だった」と扱えば、説明そのものは完成する。

しかし、そのとき、どこまでが確認された現実で、どこからが後から加えられた説明なのかという境界が失われる。

私が区別しているのは、一般的な説明の有用性と、個別現実について実際に確認された判断生成過程との境界である。

国家出力が確定しても、確認は終わらなかった
私がこのような位置を取るようになったのは、抽象的な方法論を先に考え、それを事件へ当てはめたからではない。

令和2年刑(わ)第410号事件で、私は国家出力を受領した。

2020年6月2日に判決が確定し、私は公判で起訴状記載の公訴事実を認めている。

この国家出力そのものを否認したり、後から自分に都合のよい別の結論へ置き換えたりして、その後の確認を始めたわけではない。

国家出力が制度内部で形成され、確定したという事実は、そのまま動かさなかった。

そのうえで、国家出力の形成以前から存在した主体、行為、資料、事件名義、制度操作を確認し、国家出力の確定後も、刑事確定訴訟記録、閲覧・謄写、制度内照会その他を通じて、その形成過程について何が確認できるのかを追った。

ここで、国家出力が形成される過程にすでに存在していた記録や記録上の欠落と、国家出力確定後に私が照会・確認を反復したことによって初めて固定できた状態とは、時間的にも機能的にも区別している。

確認できなかった位置を、存在しなかったことにしない
確認の結果、何も存在しなかったわけではない。

捜査、公訴、公判、判決その他の行為と結果は存在し、それを示す資料も確認できる。

一方で、複数の時点や事件枠で形成された資料が後の判断資料へ接続していることまでは確認できても、それらの資料がどの基準によって選別され、どのように再配置され、どの評価を経て結果へ接続したのかについて、同じように第三者が制度内で参照できる形へ到達できない部分が残った。

ここで私は、記録から判断基準を確認できないことを、「判断基準が存在しなかった」という結論には変えなかった。

資料選別の理由が確認できないことから、「選別理由はなかった」とも結論しなかった。

確認不能と不存在は同じではない。

確認できるのは、何が行われ、何が記録され、誰の名義や制度上の位置が確認でき、どこまで説明へ参照でき、どこから同じ条件では参照できなくなるのかという範囲である。

確認できないものについて、その不存在まで推定することは別の判断になる。

反省と再発防止を、どの現実へ接続するのか
この確認を続けた背景には、反省と再発防止の問題もあった。

公判では、私自身の反省が問われた。

私にとって反省は、一定の言葉を述べれば完了するものではなく、自分がどのような認知と判断を経て行動し、何を変更すれば同じ行為の再発を防げるのかを検証する継続的な過程だった。

そのためには、自分が何を反省対象とし、どの判断条件と対応させて行為を修正すればよいのかを具体化する必要がある。

「何を反省すべきか分からない」というのは、国家に人生や道徳の正解を教えてほしいという意味ではない。

対象行為、判断基準、証拠や法益の評価、反省を量刑や再発防止へ接続する条件が参照できなければ、自分の行為修正をどの現実へ対応させればよいのかを確定できない、という問題だった。

反省を具体的な行為修正へ接続するためにも、何を対象として、何を根拠として判断が形成されたのかを確認する必要があった。

確認できなかった位置を、別の説明で埋めない
そこで私は、確認できなかった部分へ判例、学説、専門家説明、経験則、自分に都合のよい理解を入れて事件を完成させなかった。

確認を反復した結果として、何が確認でき、何が確認できず、どの位置から制度内の説明へ参照できなくなるのかが固定されていった。

規範的空白を前提として事件を説明したのではない。

現実の確認を続けた結果として、確認できないものの位置と内容が固定され、その内部に、制度的基準体系を構成する要素が提示・確認されない状態が観測された。

ここで重要なのは、空白を見つけたことそのものではない。

空白がある場所を、別の答えによって消さなかったことである。

FC、FMP、FM――確認不能を答えで消さないための形式化
その確認反復の結果として観測された欠落事実構造を、制度外の説明で補わず固定したものがFC(First Case)である。

FCは事件そのものの別名でも、国家出力の正誤についての結論でもない。
国家出力確定後の確認を経て固定された欠落事実構造である。

その欠落を、もっともらしい説明によって埋めるのではなく、欠落した状態のまま取り扱える形式を設計する工程がFMP(First Modeling Phase)である。

その工程を経て、何が確認可能で、何が確認不能で、どこから説明参照が成立せず、どこから外部の説明による補完が始まるのかを、第三者が同一条件で照合・検証・再適用できる参照体系として固定したものがFM(First Model)である。

したがって、FC、FMP、FMによって、失われた判断理由が復元されたわけではない。

新しい「正解」が作られたわけでもない。

変わったのは、何が確認され、何が確認されず、どこから説明参照が成立せず、何を後から補完した説明として区別しなければならないのかという境界を、第三者も参照できる状態へ変えたことである。

確認不能を解消したのではない。

確認不能であるという現実を、別の答えによって消さずに取り扱えるようにした。

別の制度へ、私の結論を移植しない
だから、この事件で確認した個別の構造を、そのまま別の制度の原因へ移植することはしない。

刑法第175条について私が確認したことから、刑法第174条、AV出演被害防止・救済法、職業安定法第63条第2号その他について、個別の原因を知っていることにはならない。

それぞれ、対象となる主体、行為、資料、時点、判断工程、制度上の位置が異なるからである。

私が別の対象へ持ち込むのは、本件について得た結論ではなく、確認するための条件である。

その問いは何を対象としているのか。

何を事実として前提にしているのか。

その前提は実際に確認できるのか。

誰が、どの資料を用い、どの工程で判断したのか。

何が確認され、何が確認されていないのか。

どこまで制度内の説明へ接続でき、どこから先を一般論、仮説、推測その他によって補っているのか。

こうした条件を、対象ごとに確認する。

したがって、社会に存在する個々の「なぜ」を、私は最初から自分自身の問いとして引き受け、その答えを用意するわけではない。

まず、それぞれの問いに含まれている前提を現実へ接続する。
複数の制度、主体、行為、時点が一つにまとめられていれば分ける。
確認されていない前提があれば、その状態を確認する。

そのうえでなお問いが成立するのであれば、そこで初めて、その現実について次の確認や分析へ進む。

一人の主体が、すべてを代替しない
この作業を、一人の主体だけで完結させる必要もない。

当事者には、当事者にしか保持できない一次経験や資料がある。
研究者、専門実務家、政策形成主体、実行主体には、それぞれ異なる分析機能、権限、資料、責任がある。

これらは相互に代替できない。

本人であることも、結論の正しさを保証する権威ではない。

私が国家出力を受領し、制度操作を受け、一次資料を確認し、制度内照会を反復したという経験は、第三者が同じ当事者条件で追体験できない。

しかし、それによって私が研究者の分析、専門家の判断、政策形成主体の判断その他まで代弁できるわけではない。

必要なのは、誰か一人が全体を説明したことにすることではなく、それぞれが自分の資料、確認範囲、権限、責任、限界を保持したまま、同じ現実へ接続できる状態をつくることである。

知らないことは、停止条件ではない
これは、「分からないことには答えない」という立場でも、「すべてが完全に分かるまで何も判断しない」という立場でもない。

現実には、判断に必要な情報が常に完全な形で揃うわけではない。

だからこそ、確認できている範囲と確認できていない範囲を区別する。

その区別ができれば、確認された条件から判断することができる。

必要であれば追加の資料を確認する。
自分だけでは扱えない対象であれば、必要な能力、権限、責任を持つ主体へ接続する。
問いの前提が変われば問いを更新する。
確認不能が残れば、その位置を保持する。

そのうえで、成立している条件から次の判断、設計、実行へ進む。

未確認は、既知として扱わないための条件であって、行動を停止するための条件ではない。

現在、私が社会に対して置いている基準
現在の私自身も、すべてを一人で説明し、判断し、実行する位置には置いていない。

自分が保持すべき一次情報、原典、構造、方法、対象判断、定義上の境界は保持する一方、自分とは異なる分析機能や権限、責任が必要な領域については、それを担う主体との接続によって進める。

そこであっても、接続のために確認不能を物語へ変えたり、本人性を正しさの根拠として使ったり、他主体の判断を自分の判断として代弁したりすることはしない。

私が社会に対して置いている基準は、特定の法律への賛否でも、社会に生じるすべての「なぜ」への答えでもない。

不足しているのは、「なぜ」に対するもう一つの「なぜなら」ではない。

その「なぜ」自体を現実へ接続し、本当にその問いが成立しているのかを確認する工程である。

原因を語る必要があるなら、その原因を生成した現実へ接続し、何が存在し、何が確認でき、何が確認できず、どこから先を一般論、仮説、推測その他によって補っているのかを分ける。

現実へ接続した結果、問いの前提が変われば問いも更新する。
確認できなかったものが残れば、それをもっともらしい説明によって消すのではなく、確認できなかった状態とその位置を保持する。

その境界を保持することは、そこで停止するためではない。

確認したことは、確認した範囲で扱う。
確認していないことを、知っていることにはしない。
確認できないことを、もっともらしい説明で消さない。

そのうえで、必要な現実へさらに接続し、必要な主体と接続し、確認された条件から次の判断を始める。

答えを置くことのできる地点と、まだ置くことのできない地点を分け、その境界を消さないまま、判断、設計、実行へ進む。

それが、個別の法律、制度、政策、研究、社会問題、事業その他について私がどの結論を持つかより前に置いている、現在の私の基本位置である。

■ 原典公開先
原典名
『国家出力確定後の説明参照不能過程の形式知化と制度科学的定義』

原典公開先
https://doi.org/10.5281/zenodo.19490699

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