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新旧「なぜ男は暴力を選ぶのか」を読む

著者は東北大学名誉教授の沼崎一郎。2002年にかもがわ出版から出ていた「なぜ男は暴力を選ぶのか——ドメスティック・バイオレンス理解の初歩」が 2025年12月になって新版として信山社から出版されていたので読む。旧版と新版を比較し、およそ四半世紀で何がアップデートされたのかを(あれば)目撃しておきたい、と考えた。

RYOJI


「なぜ男は暴力を選ぶのか」概要

 100ページに満たないブックレットだ。
 「暴力とは何か」定義し、男性向け女性向けにそれぞれ18項目のチェックリストを設けて振り返りを促し、女性から多く発せられる疑問に答える形で被害を分からせ、男性からの反論として多く見られる不満に答えて加害を理解させる。周囲にとって見逃しを起こさせないための示唆があり、自身の思い込みや加害者の猫を被った態度に邪魔されず暴力に気づけるよう言葉を尽くしている。支援者として行動するよう促してもいる。支援先の探し方についてはインターネットで検索するよう助言(?)されている——リソースとして支援先をリスト化しなかったのは情報が古くなるからかもしれない。

 しかし本書の役割として特筆すべき点は、やはり暴力は殴ること(だけ)ではなく、衝動でもなく計算づくでしかないという本質を説いたところにあるだろう。なべて暴力は他者コントロール(支配)であり、それを「選択する」加害者たちの、怪物と化した奇怪で面妖な精神を指摘した部分にあるだろう。このコンパクトな本は役割的に加害者また被害者の誤認を洗い出し、「暴力」についての認識を改めさせようとしていた。

旧版と新版のちがい

 目立ったところでは「縦書きから横書きへ」という変化がある。タイトルに「?」がついた。旧版刊行時(2002年)には概念がなかった「デートDV」に改めて言及し直した。ここで「デートDV」について簡単に説明しておくと、成人同士の配偶関係ではない、交際期間中にある親密な二者間に起こる暴力のことである。「DV=家庭内で起こる暴力」という先入観は、婚姻関係にないケースでの多くの事例を取りこぼす。「家庭内」「配偶者」というだけでなく中高生の交際でも暴力は起こるのだから「デートDV」という概念が必要なのだ。旧版から新版への変化でそのようなアップデートがみられた。

「男性被害/女性加害」を徹底的に無化せんとした「悪書」

 しかしながらこのブックレットは「悪書」である。今も昔もそうである。私がこの本を(すなわち沼崎一郎という教育者を)認めることは生涯ないだろう。その理由はいったん私の信念や価値観といった主観を排しても、いきなり一ページ目に展開される姿勢、一冊の本で本来担保されてあるべき整合性の欠如を指摘すれば足りるかもしれない。

 たとえば本書が男性加害(女性被害)のみを扱う点について——女性加害(男性被害)を扱わない理由について——沼崎は新版で「(男性被害が)極めて少数」だからであると説明し、内閣府「男女共同参画白書 令和3年版」第7章第1節を論拠として「暴行罪」「傷害罪」検挙数にみる「男性加害が9割」という統計を持ち出している。

 これの何が本書の整合性を破綻させるのか。

 本書は「身体的暴力だけではない被害の深刻さ」を周知させる内容であって、そこが柱であり核なのだ。女性被害を語る時は「計算づくで表沙汰になりにくい心理的攻撃を行なう卑劣な加害者」という男性像を打ち立てておきながら、男性被害を排除する言い訳では女性加害の「暴行罪」「傷害罪」検挙数の少なさに取り縋る。心理的暴力は「暴行罪」「傷害罪」として立件されにくく女性加害ケースなら尚更であるという状況をことごとく無視して本書は始まるのだ。この性差に基づく取り扱いのちがいが恣意的でなくて何だろう。

 しかもその、ほんの数行下に沼崎は書くのである——「暴力って何でしょうか? なぐるけるといった激しい暴行だけでしょうか?」――こっちのセリフだ、と言いたくなる。これほどの混沌が、実に本文の1ページ目で展開されることはやはり珍しい。もう屁理屈はやめて「被害者男性などどうでもいいから」と書いた方がいっそ清々しいだろう。驚くことに、これでも「アップデート」なのだ。旧版のひどさは、特筆に値する。

 ドメスティック・バイオレンス(DV)とは、夫婦とか恋人同士などの親密な関係のなかで、男が女にふるう暴力のことを指します。え? 女が男に暴力をふるうことはないのかって? それは、ほとんどありません。その理由は後ほど説明しますが、ほとんどないので、考える必要はありません。

なぜ男は暴力を選ぶのか(2002年版)

 これを学者の文章と言えるのか。「ほとんどないものは考える必要がない」とはどういうアティチュードだろうか。見えにくいものは、見ないという宣言なのである。しかも、「理由は後ほど説明しますが」と書きながら、説明らしきものは旧版に見当たらない。悪書とは読者をナメ切った本のことだと、私は思う。この本は、ものを書く責任について私に考えさせる。

同性間DVを「扱わない」理由

 ちなみに同性間DVを扱わない理由は旧版には記述がなく、そもそも同性間DVについて言及されない。新版では「異性間でも同性間でも同じです。しかし、違いも数々見られます。著者の経験と能力の限界から、この本では同性カップル間のDVは取り上げません」と(脚注で)記すにとどめる。ここでも当然のように「どう同じでどう違うのか」には一切触れないので、読者は「同じなんだけど多々違うんだね」とただ思うしかない。

 このごく短い文章で、沼崎はあたかも異性間DVと同性間DVのパターンを比較したデータがあるかのように「印象付ける」。そうしてDV研究の権威としての体裁を保つのだが、私の感覚からは、沼崎が同性間DVの実態を何ひとつ知らなくとも責める者はいない。学術的に比較検討できるほどのデータがあろうはずがないのだ——なぜなら(こうして書きながら情けないが)日本社会ではドメスティックな関係性を構築できるほど性的少数者に機会が開かれていないためだし、それは彼らが十全と生きられる社会状況にないからだ。同性間DVの相談窓口は約20年前からあるが、そこで短期間ながらも相談員をしていた私でも、異性間と同性間でDVの質がどう違うのか語ることには躊躇する。私たちが突き当たっていたのは、救済の手段を確立し窓口を作った上で「同性間にもDVが起こる」と周知し認識を改めさせ、相談する不安やためらいを払拭しアクセスさせるという「数字以前の」困難であったのだし、最も高い壁は、DVの「関係の公然性が一定程度担保されていなければどこまでも暴力が秘匿される」一面にあった。ごく私的な密室状態で起こる暴力は、その関係性をないものとする社会では、幾重にも隠蔽されるのである。

 次の映像はドラマの編集版でフィクションだから、同性間DVの暴力描写もご覧いただけるだろうか。ここには「異性間と同じ」被害者の困難(被害の受け止めにくさ、支援への辿り着きにくさ)が、経験者でなければ想像できないところまで繊細に描かれている。しかし日本との違いは、彼らが職場でも公然のカップルである点、同性伴侶にも受け入れがある点だろう。「まだ日本で同性間DVは真に見えて来ない」と私が考えるゆえんである。取り組みはまだ途上である。

 だから沼崎はその点を言えばよかったのである。もし沼崎が本当に日本における同性間DVについて少しでも書こうと努力したのであれば、こうした現状(データ不足)にぶつからざるを得なかったしそれは彼の責ではない。ただ誠実に行なうことが責であり、粛々とそうすればよかったのである。分からないことを「分からない」と書くことも、誠実さに含まれる。だが彼はそれをしなかった。DV研究の権威として体面を保ち目配りはしたと言いたいだけで同性間DVに言及し、自分はゲイじゃないから分からない、というアピールで終わった。結果として「異性間のDVとは別に考えていいんだね」と読者に思わせることだけをしたのだ。

体裁上触れないこともできないが触れることもできない

 ともあれ2025年を待って「同性間DVについては扱わなくてよい」という「見識」が世に示されたわけであるが、沼崎にとってこの仕事は「触れないわけにはいかないが触れると都合がよくない」という事情が多かったのではないだろうか。同性間DVも、異性間DVにおける被害者男性の存在も、女性が唯一絶対の被害者であるという主張と馴染まない。そんなことはないのだが、彼はそう考えていただろう。しかしそれなら、沼崎はDVを「体力差や体格差を利用した身体的攻撃」のみに規定すべきだったし、そうでなければ完全ではないのだが、沼崎は「暴行罪」「傷害罪」検挙数に表れにくい心理的暴力についても、それも男性の卑劣さとして書きたい誘惑に抗えなかったのだろう。その行きつ戻りつするこころが、迷路に入り込むことを許した。彼が見失ったのは、研究者としての/物書きとしての姿勢であった。

 彼は書く――男性被害を無化するために、次のように書く。

 彼女もきついことを言うでしょう。口下手なあなたを負かすくらい、まくしたてるかもしれませんね。
 でも、それは暴力でしょうか? 暴力とは、「こわがらせ、あやつる」力でした。こわいと感じ、だから言うことを聞かなければと思ってしまうのが、暴力です。そこで質問です。彼女にボロクソに言われたあなたは、彼女が怖いと思いましたか? これ以上痛い目にあいたくないから、彼女の言う通りにしようと思いましたか?
 こわいとは感じなかったでしょう? うるさいと思っただけでしょう? どんなにボロクソに言われても、これは言うことを聞かないと大変なことになるとは思いませんでしたね? だとすると、彼女の言葉は、暴力ではなかったのです。

新版「なぜ男は暴力を選ぶのか」p54

 心理的/言語的暴力は本書をつくる上で重要な柱であったはずだが、ここに来て、あろうことか著者自身によって「男性の被害を否定するために」暴力ではない、と言われている。……いや、これは意地悪すぎる読み方か。沼崎はここで「恐怖心が起こらなければ被害ではない」という極めて斬新なロジックを用いて、男性が暴力を被害と知覚する困難を否定した。「殴らなくても恐怖心を起こさせることができる。それは暴力である」という理解から「恐怖心をもたなかったのだから被害は受けていない」という攻撃に転じることも、ヒトはやってのけるということか。しかし、ものすごいことを言うものだ。唖然とする。

 人々は暴力をめぐる経験から知見を得て来た——被害者を守るために。その知恵が、被害者の存在を無化するために悪用される時、私は悔しくなり、怒りを覚える。被害者はかつて自分に愛撫を与えた腕が、今は自分を痛めつけるためにあるという変化に深く傷つく。腕が言葉でも同じことだ。それでもかつて愛を語った言葉が敬意も思いやりも失くすことに男性のこころが傷を受けるはずがないと、沼崎は言うのである。それは恐怖ではないと。しかし私たちは既に知っていたはずだ。愛した者が豹変する時、どれほど恐怖を感じるか。絶望するか。無感覚や無感動は、被害者の特徴として典型的でもある。それを沼崎は知らないまま書いているのだろうか。見ないというのだろうか。日常は終わるのだ、家庭は安らげない場になるのだ、もう戻らないし、そんな終わり方を忘れることもないのだ、それは沼崎にとって「大変なこと」ではないのだろうか。ならば、彼は愛情を知らない。

 実は、冒頭の(本分においても冒頭の)「女が男に暴力をふるうことはないのか」という問いを立てて「理由は後ほど説明しますが」と書いた、その「説明」がこの部分に相当する——他にそれらしく読める部分が見当たらなかったのだ——「女からの暴力は認められない、なぜならそれは男にとって恐怖ではあり得ないからだ」というのが沼崎の主張なのである。これは「まさか怖かったんですか? いくらでも女を殴れるはずのあなたが? 嘘でしょう?それとも あなた弱いんですか?」というメッセージである——男性の「怖かった。悲しかった。絶望していた」という述懐をこうして封じ込めて、被害者男性の存在は、この国ではゼロになる。

 こんなことで、この国でどうやって男性を育てようというのか。私には怒りしかない。男性は「感情表現を禁じられて来た性」だった。恐怖心を覚えることも恥とされていた。その男性が被害を語り始めたら、「あなたには恐怖心があるんですか? 男のくせに」と言う。あなたが支配者だったのに、と。この暴力には、確かに私も恐怖を感じない。沼崎への怒りしか感じない。しかしこれは沼崎からの男性性への攻撃であると私には分かっている。この怒りは加害によって引き起こされたもので、これは被害感情で、正常な反応パターンである。私はこれを暴力と認識できているし、ダメージも受けている。沼崎は私にしたことを「恐怖心を引き起こさなかったのだから暴力ではない」と言うだろうか。

 しかし女性運動のなかで人類が得た知恵のひとつは、「何が暴力かを決めるのは加害者ではない」というものだった。最も大切な原則である。それさえ手放してまで、彼は書く。導入部にみられた男性被害(女性加害)の無化は、本書を通じて最後まで一貫していた。旧版がそうであったし、新版も同じであった。2002年から2025年へ。しかし前へ進むことはできなかった。
 ——24年間、沼崎は何を恐れ続けているのか。


なぜ人々は「被害男性」の存在をないものとしたいのか

 そんな問いを置いてみる。これは「なぜ被害者は女性だけでなければならなかったのか」と言い換えることができる問いである。考え続けて、私が思い当たったのは次のことである——「人々は加害者女性の存在が被害者女性の救済される権利を相殺すると考えている」。

 一部の女性運動家たちを思い出す。彼女たちは被害者男性が存在する事実を、女性運動に対するバックラッシュであるかのように受け止め、否定しようと躍起になっていた。実際にその文脈で「バックラッシュ」という発言も聞いている。「女性も加害者になり得る事実によって、女性が被害者である事実が打ち消される」、相殺されると恐れているようであった。

 なるほど、だからいまだに、性暴力被害者女性は次の言葉を言う。
 「彼は性的なものを一切、感じさせなかった」

 被害者に「落ち度」があってはならないのだ。
 でも、どうしてだろう。——私が問うのは、そこだけだ。
 問い続けたい。

 被害者男性の存在も、同性間DVの現実も、女性の被害を相殺しない。
 もちろんトランス女性の存在も、シス女性の被害を相殺しない。
 そんなの当たり前じゃないか。


RYOJI 後記/「男性が語ること」に感激していたころ

 著者の沼崎一郎氏と面識はないが、そのお姿は見ている。

 当時、私はDV/性暴力被害者女性の支援活動に携わっていて、活動の性質上、想像し得るあらゆる面倒を抱えていた。まだ男性の支援者は少なく、精巣をわざと「キンタマ」と呼ぶこともするようなタイプの女性支援者たちからすれば「いるべきでない」シスジェンダー男性がそこにいたわけである。私は「異物」だった。危険な異物だ。最終的に私は「志と潔白を証明するために」マンション8階の自室から飛び降りて死ななければならないと思い詰めるまでに追い詰められたのだが(思い直して活動をやめ1階の部屋へ引っ越した)、ある時、女性支援者たちの総会のようなものが、福岡で開かれた。そこで登壇して基調講演を行なったのが、沼崎一郎氏だったのである。彼はまだ40代だったのではないか。

 この総会でも、活動家なら全て暗記しているようなケースが語られる度に後ろの中年女性たちが「うわあー」「はあー」と大げさに呻いたり嘆いたりする。私を男性/加害者と見てわざとそうするのである。私はこういうものを「夫と息子が聴くことがないレクチャー」と呼んでいた。ついでに言えば、彼女たちの苦しみの源泉である加害者も、生涯、聴かされることがない。加害者予備軍と決めつけられ嫌がらせされるのは私であった。どこでもこういう洗礼を受けるので慣れ始めてはいたが、福岡ではあまりにもうるさすぎるので席を移動しなければならなかった。当時のそうした経験から、すっかり私はマジョリティに物を言おうとするセクシュアル・マイノリティに厳しくなった——愚かな被抑圧者は、彼女が被害者であろうと、ただの愚かで迷惑な存在である。思えば「静かにしていなさい」と諭せばよかったのかもしれないのだが、当時の私は男性であるというだけで加害者と見なされ鬱憤のサンドバッグにされることの連続で神経が参っており、「行動化に対する対応だ」と自分に言い聞かせ、ただ場を離れたのだった。

 そんな女性運動家の中に沼崎氏がいたことが、中心的存在として講演していることが、彼が口さがない女性活動家たちから「綾小路きみまろみたいだった」と陰口を叩かれていてさえも、孤立無援状態だった私には救いに思えたのだろう。——その時は。

 だから、東京に戻ってから著書を買った。これがその本である。
 希望から失望への変化をごく短い時間で終わらせられた点は傷が浅く済んでよかったとも言えるし、自律と抑制を胸に刻んで活動家を続けて来られたことは、私にとって悪いことではなかった。しかし男性サバイバーとして、またゲイとしては、到底感謝などできなかったし、こうして新版を読んでも「あれから人類は少しも成長しなかったのか」という疑いが胸に去来して苦しくなったことを書いておきたい——沼崎一郎氏がこれを読むことはないとしても。

 沼崎一郎氏に会うことがあったら、私は何を言うだろう。

 知ってますか、沼崎さん。人間は男を素っ裸にさせてね、彼が勃起してもしなくても、嘲笑できるんですよ。暴力をふるう男も、暴力をふるわない男も笑われるのだとしたら——それは最悪の暴力だと、おれは思いますよ。

RYOJI

記事をご紹介いただきました

アキレス 様、ありがとうございます。


怒るならちゃんと怒れ。


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