書き手へ捧ぐ、1通のレビュー ──パテック作品を読む
「女性一人でも入りやすいバー」逆レビュー
これはパテック氏から受けた、パテック杯へ出展した俺の作品に対するレビューへのアンサー記事だ。
最初から宣言していた通りにやる。
悪口や誹謗中傷の類ではない。
パテック杯という場を全力で作り切り、俺の作品に本気で向き合ってくれた氏へのリスペクトがあるからこそ、俺も一人の書き手として、本気の「批評」で応えたい。
パテック氏は多数のエッセイを書いているが、氏の代表作である「女性一人でも入りやすいバー」1作品に絞り、その構造を読解していく。
作品記事はこちらだ。
是非、読んで欲しい。
読んで満足したらスキを押して、俺の記事は読まずに帰ってもいい。
まず、雰囲気はある
自由が丘の夜、2Fのバー、ジャズ、竹鶴12年、I.W.ハーパーをストレートで飲む常連のおじさん。
情景は目に浮かぶ。
おしゃれな空気感も出ているし、マスターとの軽妙なやり取りや「バーなのにうどんがある」という小ネタで場を動かす基礎もある。
山も谷も描かれていないけれど、ドラマの1カットとして切り取れば成立する。
そういう作品だ。
それは本当にそう思っている。
ただ、カットとして成立することと、作品として機能することは別の話で、そこから先を書く。
体温について
パテック氏は俺の作品「銀色の猫と、ルミナス通りの入口で」に対して、「主人公のトキメキが読み手にあまり伝わってこない」と指摘した。
抑制が効きすぎているという評価だった。
では、この作品はどうか。
読み終えて、主人公のトキメキを感じたか。
正直に言う。
感じなかった。
彼女と夕食を共にして、バーに誘って、並んで座って、グラスを合わせる。
1時間ちょっとの時間が描かれているのに、主人公がこの女性のどこに惹かれているのかが一切見えない。
マスターに「可愛い子連れてきたのか」と言われて「まあね」と返す。
それだけだ。
照れ隠しなのか、本当にそう思っているのか、それすら判断できない。
彼女のキャラクター造形も同様に薄い。
「キョロキョロ周りを見ながら」「えっ?三年生のころから!?」と驚く。
好奇心旺盛なのか、単純に反応が大きいだけなのか、この人物が何者なのかが最後まで見えてこない。
記号としての「可愛い彼女」は配置されているが、人間としての彼女がいない。
ここで、氏がパテック杯で審査基準として掲げた言葉を引く。
「語り手や主人公に、作者本人の体温や人格が少しでも載っている作品」。
この作品における体温の主体は、彼女のセリフだ。
「私も、いつか一人で来れるようになりたいな」。
この一文が作品の感情的な核になっている。
感情を動かしているのは彼女であって、主人公ではない。
作者自身の体温が、主人公ではなく彼女の台詞に乗っている。
その構造に気づいたとき、この作品は自ら掲げた審査基準に対して、奇妙なねじれを起こしているように見える。
「あえて考えないことにした」について
ラストの一文。
「僕は、その"いつか"が、いつのことなのかを、あえて考えないことにした。」
この作品が多くの読者に刺さっているとすれば、おそらくここだ。
別れの予感、関係の儚さ、終わりへの静かな諦念。
読者はそういうものを補完する。
スキが集まる理由も分かるし、この一文のキレ自体は素直にいいと思っている。
ただ率直に言う。
この余韻は、作者が設計したものではなく、読者が補完することで成立していると感じる。
根拠を示す。
この作品のどこに別れの予感があるか。
主人公が何かを躊躇している描写はない。
二人の間に温度差もない。
会話は終始和やかで、マスターとのやり取りも穏やかだ。
彼女はうどんに驚いて、飲み物が飲みやすいと言って、看板を面白がる。
関係に翳りを匂わせる仕掛けが、作品内に一切存在しない。
それでも読者がセンチメンタルに読むのは、「過去の恋愛を現在から振り返る」というパテック氏のnote全体のフォーマットを知っているからだ。
シリーズの文脈が余韻を補完している。
つまりこの作品が単体では成立しているとは言いにくい。
実際、この記事のラストには関連記事として、この彼女と付き合い始めたエピソードへの誘導がある。
その文脈を知っていれば、「いつか」という言葉の重さは確かに変わる。
ただ、パテック氏は自身のプロフィールに「一話読み切り」と明記している。
その看板を掲げている以上、一編の中で完結させる責任が生じる。
また仮に「過去記事を読めば分かる」という意図であれば、「関連記事」という形式の誘導では弱い。
その文脈がこの作品の余韻に不可欠なのであれば、もう少し明示的に接続する必要があるはずだ。
余白と曖昧さは違う。
余白とは、向こう側に何かがあるから機能するものだ。
「あえて考えないことにした」の向こう側に、作者は何を置いているか。
別れの予感を読ませたいなら、その根拠を作品内に仕込む必要がある。
それがない状態でラスト一文だけに含みを持たせても、余韻ではなく説明不足になる。
あの一文が持っているポテンシャルを、作品全体が活かしきれていない。
それがもったいない。
医学生設定について
この作品、主人公が医学部六年生であることが冒頭に明示されている。
では、その設定が作品内でどう機能しているか。
「大学三年くらいから来てるかな」というセリフで彼女が驚く。
それだけだ。
医学部の六年生が三年から通い続けているということは、国試前の多忙な時期にも足を運んでいたということでもある。
あるいは忙しさの合間の逃げ場として機能していた場所なのかもしれない。
そういう含みに展開するかと思えば、何もない。
医学生という属性は「こういう肩書きでこういう生活をしている人間がいる」という提示にしか使われておらず、作品の構造に関与していない。
俺の作品に対して「橈骨という単語は整形外科医以外はほぼ使わない」という、医療従事者ならではの鋭いリアリティの指摘をいただいた。
リアリティに厳しい医療の視点を持つ氏だからこそ、同じ医療の視点という基準において、本作の「医学部六年生」という設定が物語にどう機能しているかも問われるべきだと思う。
この設定は物語を豊かにしているか。
少なくとも本作においては、その記号が十分に血肉化されていないように、俺の目には映った。
あるのは、医学生であるという事実の提示だけだ。
記号の配置について
この作品はエッセイという形式をとっている。
実体験を元にした記録だ。
ただ読んでいて気になるのは、固有名詞と情景描写の配置が、リアリティの担保になっている反面、共感を呼ぶための記号としてしか機能していない点だ。
自由が丘、竹鶴12年、I.W.ハーパー、ジントニック。
場の質感を出すための選択として悪くはない。
ただこれらの記号は、パテック氏以外の誰が使っても同じように機能する。
エッセイである以上、そこには書き手固有の視点や感覚が宿っているはずだ。
自分の体験を書いているなら、自分にしか書けないものが一つはあるはずだ。
このバーに通い続けた理由、マスターとの関係の積み重ね、一人で飲む夜の質感。
そういうものが書かれていれば、医学生設定も生きてくる。
忙しい医学部生活の中でこの場所が何だったか、という話になる。
でも実際には、それが書かれていない。
医学生設定を除けば、この作品は誰が書いても成立する。
自分の体験を書いているはずなのに、自分が薄い。
それがこの作品の根本的な問題だと思う。
おしゃれな1カットとして成立しているのに、それ以上にならない理由はそこにある。
だからこそ俺は、パテック氏の、きれいに脱臭されていない、もっとドロっとした本気の体温が乗った作品を、次の機会にこそ読んでみたいと思っている。
このバーのリアリティについて
ここからは批評というより、バー文化を愛する者としての個人的な無風流な拘りとして読んでほしい。
俺は札幌すすきのという猥雑な街の人間で、自由が丘のバーの文法を実体験として知っているわけではない。
もしかしたら、自由が丘にはそういったスナックとオーセンティックが融合した、奇跡的なガラパゴス空間が実在するのかもしれない。
だとしたら、これは完全に俺のすすきのバイアスによる野暮天なツッコミだ。
そこを平に容赦いただいた上で、野次馬の推測を聞いてほしい。
ただ推測であっても、積み重なれば一つの問いになる。
仮にこのバーが実在するのだとしても、表現として、記号が渋滞し、互いのリアリティを打ち消し合っているように見える。
食べログ0件について
「食べログはたしか、0件だけど」という一文がある。
隠れ家的な常連経営の店であっても、食べログ0件というのはかなり考えにくい。
一人でも客が来れば1件レビューがつく可能性がある時代に、完全な0件を維持するのは難しい。
しかもこの店のマスターは「女性一人でも入りやすいバーです」と看板で宣伝している。
積極的に集客を諦めているわけではないはずだ。
この0件という記述は、「知る人ぞ知る隠れた名店」という雰囲気を演出するためのくすぐりとして機能しているように読めるが、それはリアリティの担保にはなっていない。
マスターの発言について
主人公が彼女を連れて入店すると、マスターはこう言う。
「おっ、今日は可愛い子連れてきたのか」。
気のいいマスターという雰囲気を出したいのは分かるし、こういう人物が実際にいることは否定しない。
ただ常連相手であっても、その連れに対してこういった声のかけ方をするバーテンダーは、当時においても今においても、多数派ではないと思う。
あるいは、スナック的な距離感の店なのかもしれないが、そうであれば冒頭のおしゃれなバーという記号と、マスターのパーソナリティが少し喧嘩しているように見えてしまう。
I.W.ハーパーをストレートで飲む常連について
隣の常連客がI.W.ハーパーをストレートで飲んでいるという描写がある。
I.W.ハーパーのレギュラーボトルクラスのものであれば、ボトルがカウンターに置かれるとは考えにくく、主人公は琥珀色の液体を見ただけでそれをハーパーと判断していることになる。
当然、常連同士顔見知りで好みを把握しているというパターンも考えられるが、描写としてやや不自然さが残る。
またバーでウイスキーをストレートで飲む客は、イメージほど多くない。
ロックかトワイスアップが現実には多数派だ。
「バーらしい客」の雰囲気を出すための選択として理解はできるが、後述する煮込みの話と重なると、違和感が積み重なっていく。
キープボトルについて
主人公は竹鶴12年のボトルをキープしている。
キープボトルは実態として、長年通い続けている常連客がやっていることが多い。
大学三年から通い始めて数年の客がキープボトルを持っているというのは、やや現実から遠い印象を受ける。
また竹鶴12年は2014年前後に終売しており、現在はプレミア価格がついている銘柄だ。
パテック氏は30代ということだが、医学部六年生時代をざっくり十年前と計算すると、既に竹鶴12年は高騰している。
2013年時点でボトルを入れていれば、という反論もあるだろう。
俺自身は2013~14年は成人前だったので当時の混乱は体験していないが、2018年の白州12年休売の時にはすすきのの真っ只中にいた。
当時は白州が休売と発表される約半年近く前から品薄が続き、価格も高騰していた。
竹鶴のときはその時よりも現場は更に混乱しており、2013年にノンエイジボトルが発売された時点で12年ボトルは既にジワジワとプレミア化していた。
固有名詞を選ぶ以上、その銘柄が持っている文脈や重量まで引き受ける必要がある。
その選択が十分に検討された上でのものかどうかは、少し気になった。
ただ、この部分に関してはパテック氏の年齢を固定化して考えている部分もあることは留意したい。
煮込みについて
このバーでは牛すじ煮込みとうどんが提供されている。
バーという空間は基本的に、酒の香りを楽しむ場として設計されており、提供されるフードはナッツや乾物といった香りへの影響が少ないものが中心になる。
醤油ベースや動物性油の強い煮込みをレギュラーメニューとして出している店は、少なくとも俺の知る限りでは珍しい。
DIYで作られた小さな店内でそれを仕込む設備が整っているかという点も含めて、業態として少し考えにくいと感じた。
そしてハーパーをストレートで飲んでいる常連のおじさんが、アテに煮込みを選んでいるという組み合わせも気になった。
すすきのの経験則による推測に過ぎないが、バーでウイスキーをストレートで飲むような客が煮込みをアテにするのは、あまり見かけない光景だ。
氏はオーセンティック風なDIYで作られたバーと表現しているだけで、オーセンティックとは明言していないので、カジュアルダイニングバーやスナックの中間的な店とも考えられるが、どっちにしろそういった店でハーパーや竹鶴12年が揃って提供されるというのもあまり見かけない。
全体を通して言うと、このバーを描く要素のひとつひとつは「バーらしさ」を演出するために選ばれているように見える。
自由が丘という立地、ジャズ、ボトルキープ、気のいいマスター。
それらが醸し出す雰囲気は確かにおしゃれで、情景として目に浮かぶものはある。
ただそれらを並べた結果、細部が互いに噛み合わなくなっている部分がある。
おそらく実在する店なのだろう。
リアルな経験をそのまま書いたのだとは思う。
ただ、実在することと表現としてリアリティがあることは別だ。
そしてここが重要なのだが、仮にこの店が実在するとしても、問題は解決しない。
おしゃれな空間を描きたいのであれば、煮込みとうどんを出す店はその目的に対して適切な選択ではない。
煮込みとうどんが似合う店は、それはそれで魅力的な店だ。
ただそれはバーのおしゃれさとは別の方向の魅力であって、この作品が目指している雰囲気とは噛み合っていない。
記号を配置することと、場を描くことは違う。
前者は雰囲気を作り、後者はそこにいる感覚を作る。
この作品で感じる違和感は、そこから来ていると思う。
繰り返すが、これはすすきのの人間による、推測を多分に含んだ指摘だ。
ただ「実在するかもしれない」と「リアリティがある」は別の話で、その点においてこの作品のバーの描写には引っかかりを覚えた。
そしてその引っかかりは、作品全体の問題と地続きだと思っている。
まとめ 綺麗なパッケージについて
ここまで色々と書いてきたが、俺がこの作品に感じた違和感の正体は一つに集約される。
それは、作品全体が「綺麗なパッケージ」に守られすぎているということだ。
読者の好意的な想像力、シリーズものとしての暗黙の了解、そして自由が丘のバーという上質な空間の記号。
そういった外堀で作品をスマートにコーティングした結果、肝心の中身の生々しさや、書き手自身の不器用な部分が見えなくなってしまっている。
エッセイの形をとりながら、一番安全な場所に作者が隠れている。
コンペの主催者として応募作に「体温」を求めた人間が、自分の作品ではこれだけ巧妙に体温を隠している。
そこに対するもどかしさが、今回この長文を書かせた一番の理由かもしれない。
文章の技術も、情景を描き出す力もあるのは分かっている。
だからこそ、記号や文脈といった安全網を外し、書き手の業や泥臭さがそのまま文字になったような作品を読んでみたい。
今回のコンペで俺たち参加者にそれを求めたように、パテック氏自身のそういう文章を待っている。
俺の作品の『抑制』を見抜いた氏の確かな審美眼があるからこそ、氏が本気で安全網を外したときの破壊力を、俺は誰よりも期待している。
おわりに
最後に、二つのことを書いておく。
ひとつは、パテック杯を開催してくれたことへの感謝だ。
俺自身、共同運営マガジンの参加審査で他人の作品に向き合うことがあるので分かるが、多数の応募作を全て読んでレビューまで書くのは、想像以上に体力も精神力もいる。
それをやり切ったこと自体、敬意を持って見ている。
このコンペを通じてたくさんの作品に触れられたし、フォローしてくださった方も増えた。
機会を作ってくれたことには、純粋に感謝している。
もうひとつは、裏パテック杯で優秀作に選んでもらったことへのお礼だ。
1次選考で落ちてムカついて書いた記事が、別の場所でこういう形に着地するとは思っていなかった。
挑発的な記事を企画の種に変えてしまうパテック氏のスタンスには、「やられた」と思った。
受け取ってもらえたことに、感謝している。
(了 6,678文字)
●関連記事
・「女性一人でも入りやすいバー」
・恋愛コンペ「パテック杯」を開催します。
・パテック杯、優勝者発表!二次会会場は「裏パテック杯」です
・裏パテック杯、あの記事はぜひ読んでほしい
・書き手たちへ捧ぐ、11通のレビュー ──パテック杯応募作品を読む
・銀色の猫と、ルミナス通りの入口で
・恋愛コンペに落ちて悔しすぎるから、自作を恥ずかしげもなく完全解説する
・ツンケン国のお姫様
