宝条潤と九条蓮 推理の交錯―音楽家たちの連続殺人―:第七話【天才たちの協奏曲(コンチェルト)】
【ルクス国際音楽祭】の特設会場。
開幕前の会場は数千人の観客の熱狂とざわめきで溢れ返っていた。きらびやかな正装やドレスを身に着けた観客たちが、今か今かと幕が上がるのを待ちわびている。
だがその華やかな舞台裏には、重苦しい空気が蔓延していた。
三件の連続殺人と、一件の殺人未遂。
緞帳で区切られた二つの空間には、まるで異世界のような隔たりが生まれていた。
潤はリハーサルの時と同じく、遥香と新太と共に観客席に陣取っていた。
パンフレットを眺めながら、新太は終始ご機嫌な様子でふんふんと鼻歌を洩らしている。
「お前なあ…三件も殺人が起きてるのにお気楽だな」
周囲に聞こえないようにしながら、潤は呆れ声で言う。
しかし新太は気にも留めていないのか、無邪気に笑ってみせる。
「当たり前じゃん、俺ずっと楽しみにしてたんだから」
「気持ちはわかるけど、危機感なさすぎよ」
流石の遥香も溜め息交じりに言うが、浮かれている新太には響かないようだった。
「二人とも、せっかくのコンサートなんだから怖い顔すんなよ!クラシックは心を豊かにするんだからな」
「お前はもう少し危機感と緊張感を豊かにしろ」
「同感ね」
「ひどくね!?」
いつもと変わらないやり取りを交わしながらも、潤の視線は目の前の舞台ではなく、その袖に注がれている。
(あの時以来、幸いにも如月さんが襲われることはなかった。こうして、無事に音楽祭は開催までこぎつけた訳だけど…静かすぎる)
思考が急速に動いていく。周囲のざわめきは、今の潤の耳には浸入することはない。
(あれで諦めるとは思えない…僕がいても直接襲うほど、犯人は如月さんへ強い執着を抱いてる。それに、まだE線は残ったままだ)
ぐ、と組んだ腕に力が入る。それに気づいた遥香が、心配そうに潤を見る。
(犯人は…今日、何か仕掛けてくる可能性が高い)
同じ頃。
九条は五味を伴い、会場の警備を通過したところだった。だが既に五味は疲れ果てた様子で、九条はいつも以上にオーラの棘を隠そうともしていない。
防護コートを着用し、真っ白な手袋を嵌め、スマートグラスを装着している。それだけなら普段の九条の装備なのだが、大きく異なるのは耳を覆っているヘッドホンだった。明らかに音楽鑑賞用ではない、一切の音を受け付けないであろう造りである。
「先生、音楽祭なのにさすがにヘッドホンはまずいでしょ。警察関係者だからってなんとか通してもらいましたけど」
「君こそ理解していない。私がこんな汚濁と騒音の暴風雨の中で、無防備で耐えられると思っているのか?」
「……絶対無理です」
大袈裟に肩を落とす五味は放っておき、九条はスマートグラスやヘッドホンの出力をミクロ単位で調節する。スマートグラスの黒い画面には、数千人が放つ無数の音声の周波数が、狂ったように上下する光の波形として視覚化されていた。彼は世界を音ではなく、純粋な『光の行列』として処理しているのである。
「宝条氏は?」
「元々チケット持ってたみたいで、観客席にいるみたいです。神谷管理官も一緒ですって」
バックヤードに足を踏み入れながら、五味の後ろを歩いていく。
さすがに本番当日というだけあり、ステージの緊張感がこちらにまで漂ってきている。あちこちから楽器の音や歌声が響いており、九条の眼前で目まぐるしく数値が変化していった。
(――犯人の手元には、まだ配置されていないE線が存在している。当然、放置などという選択肢はない。必ず、最高音の演奏を行う準備をしている)
九条はポケットのピンセットにそっと触れる。硬い感触を確かめながら、脳内目録のあらゆるデータを引き出していく。
(配置は行わせない…確実に阻止する)
会場内の照明が、ゆっくりと落ちていく。それをなぞるように、観客たちのざわめきがだんだん静まり返っていく。
18時。
世界最高峰の音楽の祭典【ルクス国際音楽祭】が、遂に幕を開けた。
「皆様、本日は【ルクス国際音楽祭】にお越しいただきまして、誠にありがとうございます」
司会者のよどみない声が、会場の隅まで届いていく。
「本来ならば、総合プロデューサーである久遠寺雅臣氏、そして審査委員長である天堂響一氏にもご登壇いただく予定でした。しかしながら、痛ましい出来事により、叶わぬ結果となってしまいました」
一瞬、会場の空気がぴんと張り詰める。物音一つしない時間が、数秒だけ訪れた。
「本日の公演は、亡くなられた方々への哀悼を込めながら…三年前にこの世を去ったピアニスト、篠宮奏介氏への追悼演奏として執り行います」
司会者が深々と頭を下げる。観客から、緩やかに拍手が沸き上がった。
「――それでは…ただいまより【ルクス国際音楽祭】日本公演を開始したします」
司会者と入れ替わるように、燕尾服を身にまとった朝比奈が舞台上へ姿を現した。指揮台の横に立ち、丁寧に一礼する。観客から、再び拍手が沸き起こった。
指揮台に立ち、朝比奈がすっと指揮棒を振り上げる。演奏者たちは楽器を構え、観客は固唾を飲んでその時を待った。
朝比奈の腕が振り下ろされる。
瞬間、荘厳なオーケストラの音色が会場を一斉に包み込んだ。観客は酔いしれ、うっとりと美しい音楽に聞き入る。
だが、そんな中でたった二人だけが、厳しい表情のまま思考を巡らせていた。
(この壮大な舞台で、どうやって如月さんを狙うつもりだ?ただ単に襲うだけとは考えにくい…篠宮さんのために、必ずタイミングを決めているはずだ)
(何千という観客、警察による厳重な警備体制…殺人を犯すとなれば、あまりに不利な環境下だ。その穴をかいくぐってEを奏でるというのなら、周到な計画を立てているに違いない)
(天音美玲…篠宮奏介さんのお姉さん…彼が自殺したことへの復讐を完結させるとなれば…)
潤の視線が、音楽祭のパンフレットに落ちる。薄暗い観客席の中、隅々まで目を通し始めた。
(なにかヒントがあるはず…この舞台を選んだ理由が、絶対に…)
小さな違和感も見逃さないよう、潤の目はスキャナーのようにパンフレットを解析していく。
そして目に留まったのは、最終ページに記載されていた、音楽祭のタイムテーブル表だった。
【特別プログラム:故・篠宮奏介追悼演奏】
(篠宮さんの追悼演奏…)
瞳孔が大きく見開かれる。
そこに連なっていた二名の名前を見た瞬間、潤は息を呑んだ。
「……潤?」
様子が変わったことに気付いたのだろう、遥香が囁くように声を掛けた。
「……遥香、説明している暇はない。今すぐ舞台袖の警備体制を強化してくれ」
潤は立ち上がった。遥香はその意味をすぐに理解し、無線機を手に取る。柴田や他の警察官たちに連絡を取りながら、足早に歩き出した潤の後を追いかけ始めた。
九条は腕を組みながら、目録に整理していたコンサートホールの構造を脳内に映し出していた。観客席、舞台袖、バックヤード…そして演奏が披露されるメインステージ。
(E線は、如月レイと位置付けられている。彼女が襲撃された事実を鑑みても、その数値はゆるぎない。…だが、現時点で数値は100に到達しない。E線を奏でるために、まだピースが揃っていない)
あまりにも押し黙っているので、さすがに五味も話しかけづらいのか口を噤んだまま、聞こえてくる音楽に耳を傾けている。
トントン、と九条の指先が自身の二の腕を叩いた。
(E線…ヴァイオリンの中で、最も高い音を発する弦…それに相応しいのは、本当に如月レイのみなのか…最高音となり得るのは…)
九条の瞳が、鋭い光と共に輝いた。もたれかかっていた身体を壁から離し、無言で歩き出した。
「!九条先生!?」
五味は慌ててその後を追いかける。九条はいつになく力強い足取りで、雑多な廊下を抜けていく。五味が問う前に、振り向きもせずに口を開いた。
「最後のピースが揃った」
舞台袖の入り口。
嫌でも音で溢れている場所に、九条は自ら歩を進めた。乱れ飛ぶ数値に眩暈を覚えそうになりながらも、歩む足は止めなかった。
「九条先生!」
九条の姿を見止めた潤が声を掛ける。九条はようやく足を止め、潤をまっすぐに見つめた。潤の声が、波形となって九条の網膜へと浸入する。
「九条先生がここに来たということは…そういうことですよね」
「言うまでもないだろう。君も、同じ結論にたどり着いているのだから」
視線を合わせる二人を追い、遥香や五味たちがなだれ込んでくる。二人を包む冷たい空気に、全員が言葉を飲み込んだ。
「「――犯人は、天音美玲」」
眼前で、二人の声が重なり合う。周囲が一斉にざわついた。
「篠宮奏介さんの姉で、如月レイさんに憎悪を抱いている人物。彼女以外にはあり得ません」
「そして、最後に残されたE線。それは如月レイに見立てていることも確定している…だが、E線となり得るのは、如月氏だけではない。最も高い声を、自身の喉から発するソプラノ歌手…天音美玲本人だ」
「自身も演奏者、ということですね。彼女は自らをも復讐の舞台装置の一部として組み込んでいるんだ」
「そして今、彼女はその演奏を完結させようとしている。篠宮奏介への追悼を、自身の手で行うために」
「……え、それってまさか」
五味が絶句する。遥香も表情を強張らせた。
「天音美玲は、最後に行われる追悼演奏の舞台を使用する。この会場で警察の目を出し抜き、死角として機能するのは、舞台上のみだ」
「例え如月さんに何かあったとしても、何らかの事故やハプニングとして見せかけることもできますからね」
あまりにも凄惨な二人の推理に、遥香たちは何も言えずただ聞き入ることしか出来なかった。そんな空気もつゆ知らず、事務的な館内アナウンスが鳴り響く。
『皆様、大変お待たせいたしました。続きまして、本日最後の演目――篠宮奏介氏追悼演奏を開始いたします』
「!まずい、演奏が始まる…!」
「止めるぞ」
潤と九条が舞台袖を走り抜ける。
その最中、九条は装着していたヘッドホンとスマートグラスを外した。
「!先生!?」
「五味くん、預かってくれたまえ」
ぎょっとする五味に、九条は自らを守る装備を突き付けた。
「このノイズは、この耳で直接整理する必要がある」
ヘッドホンが外された瞬間、数千人の気配と、楽屋裏に満ちる生々しい殺意が、濁流となって九条の鼓膜を激しく殴りつける。
激しい目眩を純粋な論理の力でねじ伏せ、九条はピンセットを手に足を進めた。
舞台袖に設置された、出演者待機室。
独特な緊張感が漂っており、出演者たちもどこか所作なく楽器に触れたり、無意識にテンポを確かめたりしている。
「いよいよですね…」
黒崎は緊張を顔に貼り付かせ、手を握ったり開いたりしている。
それに気づいた如月が、そっと指先を添えた。
「ええ、でも緊張することはないわ。大丈夫よ」
「そうだ。奏介のためにも、最高の演奏を届けましょう」
朝比奈もぽんと黒崎の肩を叩く。表情を和らげた黒崎は、素直に頷いた。
その輪に入ることなく、天音はただ一人壁際に佇んでいた。煌びやかなドレスに忍ばせた、自らの強い執念を込めた凶器に、そっと布越しに触れる。
(奏介…やっとよ。やっと、三年越しにあなたの無念を晴らすことが出来る)
天音の視線が、ゆっくりと如月に向いていく。
美しい漆黒のドレスに袖を通した彼女は、いつも以上に凛としており、穏やかな横顔を浮かべている。
(そんな顔が出来るのも今のうちよ…あんたの命は、私の手で――)
天音の心の声は、突如響き渡ったバン、という激しい音に遮られた。
最初に飛び込んできたのは潤だった。続いて、マスクのみを着用した九条が静かにやってくる。そして雪崩れ込むように、遥香や五味と言った捜査員が一斉に足を踏み入れた。
「!宝条先生…?」
「な、なんだ!?」
如月と朝比奈が思わず声を上げる。黒崎はびくりと震えたまま、突然の侵入者たちに硬直してしまっていた。
「如月さん…残念ながら、追悼演奏は中止です」
「……どういう、ことですか」
「最後のE線を奏でさせないためだ」
九条が答えながら、ゆっくりと歩み寄る。潤も倣うようにして、足先をそちらに向けた。二人の視線の先には、表情一つ変えていない天音の姿があった。
潤の唇が、静かに言葉を綴り始めた。
「天堂響一さん、茂呂敬四郎さん、久遠寺雅臣さん…三人を殺害し、そして如月さんをも殺そうとした一連の事件。その犯人は――」
一瞬の静寂。『天才』二人の瞳は、揺らぐことなく彼女を捉える。
「天音美玲さん、あなたですね」
「……え!?」
悲鳴に近い声を上げたのは朝比奈だった。黒崎は息を呑み、怯えたような視線を天音に注ぐ。周囲にいたスタッフたちが、途端にざわつき始めた。
「宝条先生、嘘ですよね?」
「そう言いたくなるのはわかりますが、嘘ではありません。僕も、九条先生も、天音さんが犯人であるという結論は変えません」
「……どうして、美玲さんが……」
如月は言葉を絞り出すようにしながら、自分を抱くようにして美玲を見つめる。美玲は眉一つ動かさず、周囲の雑音すら耳に入らない様子だった。
「三年前の篠宮奏介さんの自殺…これが動機であることは明白でした。ただ、どうしても犯人へ繋がるピースが足りなかった。あと一歩届かない…そんな中、如月さんのお話を聞いて、確信が持てました」
「私の、話…?」
引き合いに出された如月が、潤の後ろ姿を見る。潤は目を細め、言葉を続ける。
「言っていたでしょう。篠宮さんには、離ればなれになっているお姉さんがいるって」
「……待ってください。まさか…」
如月は目を大きく見開き、唇を震わせた。天音の髪が微かに揺れる。
「天音美玲さん…あなたは一連の事件の犯人であり、亡くなった篠宮奏介さんの姉。そうですね?」
「そんな馬鹿な…!だって、苗字も違うし、奏介からはそんな話はまったく…!」
「如月さんの部屋にお邪魔した時、篠宮さんの写真を拝見しました。僕はそれを見て、誰かに似ていると思ったんです。でも思っただけで、誰かとは特定できなかった。だから如月さんに訊いたんです、『ご両親以外でご家族はいましたか』って」
「…だから、あの時宝条先生は…」
「天音さんと篠宮さんの両親は離婚していて、篠宮さんは母親に、天音さんは父親に引き取られた。だから苗字も違うし、誰も気付けなかった…公に話すことでもないですし、天音さんも篠宮さんも敢えて口にしなかったんでしょう」
「それ故に、天音氏は疑惑を持たれることもなかった…実に巧妙な偽装だ」
九条が潤の言葉を引き継ぐようにして口を開く。
「血縁を隠蔽し通せば、自身の犯行を完全に闇に葬れると考えた。実に論理的であり、合理的な解答だ。――如月氏という真実がなければ」
天音の肩が微かに跳ねる。
だらりと垂れ下がっていた指先が、僅かに動いたのを、九条は見逃さなかった。
「余程E線を奏でることに執着している…まだ演奏を続けるつもりか」
「この瞬間も、如月さんへの憎しみは消えていないようですね。あなたが以前から如月さんに辛く当たっていたのは、彼女が篠宮さんの恋人だったからでしょう」
「どうして…ですか?恋人だからって、レイさんを恨む理由なんて…」
「如月さんが恋人だから…そして天音さんが姉だから、です。大切な弟の篠宮さんは自ら命を絶った…姉である自分は守ることが出来なかった。それなのに、恋人である如月さんは今も生きて、ピアノを弾いている。その事実を受け入れることが、どうしても出来なかったんでしょう」
冷たく重苦しい空気が、控室を満たしていく。
如月は顔を上げ、一歩だけ天音に近づいた。
「……美玲さん。あなたは本当に、奏介のお姉さんなんですか?」
如月の静かな声が空気を震わせる。
すると今まで沈黙を貫いていた天音が、徐に顔を上げた。その顔には、悲哀と憎悪が混じり合った、複雑な笑みを浮かべていた。
最終話へ続く
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