理不尽な話
世の中にはバトンというものがある。
運動会のリレーの時に、次の走者に渡して繋いでいくあれだ。
しかしどうやら運動会だけではないらしい。
noteの世界でもバトンは存在している。
もちろん善意の企画であり、自分などの記事を気に入ってくれて、それをわざわざ紹介してくださるのだから、思いがけないことだ。もう感謝しかない。
しかし今度はしりとり付きである。
「り」が回って来たから「理不尽な話」とした。
自分の次の走者には「し」で始まるタイトルで記事を書いてもらわなければならない。
書くことと読むことにしか興味がない、とは言っているが、もう一つあった。一人でも多くの方に読んで頂くことだ。その意味では本当にありがたい限りだ。
同時に現実的な課題もある。
まずだ。
ほぼ同時に二つのバトンが回って来た。
一人の走者が二本のバトンを持って走る。
別に特別走りが速い訳でもないのに。
二つのレーンを一人で走っている。
普通は反則だ。
ある意味、滑稽だ。
二つのバトンが回ってくるというのは、特殊な状況で、そうあることではないだろう。
だが自分自身の性向に関しての問題もある。
そもそも社交的ではない。
これはnoteの世界でも同じだ。
バトンを次の走者三人に渡さなければならない。
三人である。
なぜ一人ではなく三人なのか。
二つのバトンで六人だ。
もちろん分かってはいる。
木の幹から伸びる枝を増やして行こう、そういうほのぼのするような意図があるのだ。
自分には気楽に頼める相手が、そもそも六人もいない。三人だっていない。一人もいないと言ってもいいくらいだ。当然だ。ひたすら読んで、ひたすら書いている、それ以外に何もできない人間だ。
何よりもだ。
頼んできてくれた人、記事を紹介してくれた人は、善意でそうしてくれたということだ。そして自分自身も大変ありがたいと思っている。四十年に及ぶサラリーマン生活ではこんなことはなかった。noteの世界ではわずか一年や二年で、この自分を推薦してくれたのだ。
まだある。
皆さん、とても丁寧で優しいのだ。
もしよろしければ、ご無理なさらずに、ご無理のない範囲で。
こんなことを書かれたら、バトンを粗末に扱うことなどできるはずもない。
感謝の気持ちを、是非とも形にしなければならない。
バトンを渡す相手、気楽に頼める相手はほぼいない。
だがバトンを捨てることなどできない。
だから自分は受け取ったバトンを静かにレーン上に置く。
誰か手を挙げて欲しい。
一旦止まったバトンを受け取って、走り始めて欲しい。「し」で始まる記事を書いて。
理不尽な話というのは、自分のところへ話が来たのが理不尽だと言っているのではない。
バトンをレーン上に置くから、誰かそれを持って走り出して欲しい。
そんな勝手なことを願う自分が理不尽だ。
