異聞:白雪姫――王子様キスをするのは今じゃない
ある日、蹄の音がした。 閉じた棺の中まで届くほど、はっきりと。 馬が、ふいに止まった。
木漏れ日が、王子様の金髪を一本一本、黄金に染めた。 サファイアよりも深く澄んだ瞳が、すっと細くなる。 馬を降り、一歩、また一歩と近づいてくる。 その度に、甲冑の金具が静かに鳴った。
棺の前に立った王子様は、しばらく動かなかった。 ガラスの向こうに眠る姫の顔を、ただ見つめていた。 それから、ゆっくりと膝をついた。 まるで祈りを捧げるように。 これほどまでに美しい女性を、彼は今まで見たことがなかった。 雪のように白い肌、赤く艶やかな唇。
王子がキスをしようと顔を近づけ、完璧なロマンチック空間が完成したその瞬間。 あたしの頼りない意識の輪郭が、王子の甘い香りに揺さぶられて、ふっと歪んだ。
(どうしてあたしは、こんなところで眠る羽目になったんだっけ?)
棺の中で、あたしはどのくらいこうしていたんだろう。 一日なのか、一年なのか。 もう、時間というものがどんな形をしていたのかさえ思い出せない。 棺の中は、息をするたびに自分の気配だけが返ってくる場所だった。 眠っているのか、死んでいるのか。 その違いも、もうどうでもよくなっていた。
でも—— あの声だけは、今でも思い出す。
「醜くなりたくない。老いたくない。消えたくない」
その声が、あたしをここまで連れてきた。
七人分の皿を洗いながら、あたしはぼんやりと考えていた。
お城の中では、お妃様はいつも鏡の前にいた。夜明け前から、眠る間際まで。食事の途中でも、客が来ても、鏡が気になると席を立った。
お妃様は、鏡の前に立つときだけ息をしているように見えた。
「鏡よ、鏡。この世で一番美しいのは誰」
「世界で一番美しいのはあなたです」
そう鏡が答えるまで、お妃様は動かなかった。その言葉を聞いて初めて、まるで命の火を繋ぎ止めたかのように、細く、震える息をつく。
あたしはそれを、物陰からずっと見ていたわ。
「世界で一番美しいのはあなたです」この言葉さえ聞ければ、とお妃様はよく言っていた。
「この鏡さえあれば。この鏡さえあればいいの。美しさ以外には答えられなくても、それでもいいの」と、鏡に向かって繰り返しておっしゃってた。
ある日、鏡の答えが変わった。 その瞬間、お妃様の部屋の空気が、ひどく冷たくなった気がした。
そのとき、お妃様が、指が白くなるほど強く鏡の縁を掴むのを見てしまったの。でも、ただ怒っているだけじゃない。それだけじゃないってことは、わかったわ。
それから夜ごと、廊下の向こう、お妃様の部屋からあの声が聞こえてくるようになった。
「醜くなりたくない。老いたくない。消えたくない」
その声は、泣いているみたいで、呪っているみたいだった。
今にして思えば、お妃様は、鏡の中の自分が壊れてしまうのを、なによりも怖がっていたんだと思う。
あの日、鏡が「白雪姫」とあたしの名前を呼ぶまでは。
あたしは、気がついたら城を飛び出していた。
あの声が、背中を突き飛ばしてきた。逃げるしかなかった。
森は、光を全部飲み込んでいた。最初は、ただ走った。
シルクの靴は底が抜け、湿った土の冷たさが足裏に伝わってきた。
鋭い枝が髪を引きちぎり、ドレスの裾は茨に絡まってボロ布になった。
息が苦しくて、泣いているのかどうかもわからなかった。
ただ、あの声から遠ざかりたい一心で、あたしは闇の奥へと潜り込んでいった。
けれど、七歳の足で逃げきれるほど、夜の森は優しくなかった。
「……ここまでだ、お姫様」
背後から伸びてきた大きな手に襟首を掴まれ、あたしは地面に転がされた。そこに立っていたのは、お城の猟師だった。お妃様に忠実で、いつも獣の血の匂いをさせている男。
あたしの首筋に、冷たいナイフの切っ先が当てられる。
「お妃様の命だ。あんたを殺して、肺と肝臓を持ち帰らなきゃならない」
あたしは震えながら、男の濁った瞳を見上げた。
「……あたしを、食べるの?」
あたしがそう問いかけると、猟師のナイフが微かに震えた。
お妃様は、鏡が告げた「あたしの美しさ」を、物理的に自分の中に閉じ込めようとしている。
猟師は長い沈黙の後、低く吐き捨てた。
「……逃げろ」
彼はあたしの代わりに、藪から飛び出してきた若いイノシシを、手慣れた動作で仕留めた。
凄まじい断末魔。
男は、まだ温かい獲物の腹を裂き、中から真っ赤な塊を引きずり出した。
「これをあんたの肺と肝臓だと偽って、あのお方に差し出す。お妃様はそれを料理させて、食べて満足するだろう。だが、鏡があんたを見つければ、俺の首も飛ぶ」
猟師は、森のさらに深く、霧が立ち込める谷の向こうを指差した。
「あの霧の先は『境界』だ。あそこから先は、城の鏡も、お妃様の執着も届かない。だがな、お姫様……あっちへ行ったら、あんたはもう人間として死んだも同然だ。二度と、陽の当たる場所へ戻ろうなんて思うなよ」
あたしは頷くこともできず、ただ霧の向こうへ走り出した。
背後で、猟師が血まみれの臓器を抱えて城へ引き返していく足音が、いつまでも耳に残っていた。
森の中を、どれだけ歩いたのか覚えていない。
喉が焼け、足の感覚がなくなった頃、やっとの思いで見つけた小さな家には、誰もいなかった。
気がついたら、掃除をして、ご飯を作っていた。
帰ってきた七人の小人たちは、少し驚いた顔をしただけだった。
でも、彼らはあたしを受け入れてくれた。
七人の小人は毎朝、寸分の狂いもなく同じ間隔で、一列になって山道を歩いた。そして帰り道も、まったく同じ歩幅で。
朝、家を出るとき、七人全員が台所のあたしを、同じ角度で横目に見る。誰も何も言わない。最後の一人が戸を閉めた。先頭の一人がランタンを提げ、残りは籠を背負い、ツルハシを担いで歩き出した。
そして帰り道。
「今日は何を作ってくれているかな」 誰かが言った。その言葉に誰も答えはしない。 しばらく沈黙があって、別の誰かが言った。 「疲れたな」
まるで測ったかのように、一列縦隊のまま、全員が頷いた。
家の灯りが見えてくると、全員の歩みが先頭に引きずられるように少しずつ速くなっていく。それでも、彼らの間隔は変わらなかった。
翌日も、七人は同じ間隔で山道を歩いた。
あたしは台所に立ち、七人分と自分の分の食事を用意した。
それが、当たり前になっていった。
小人たちは、森で採れる豆のスープを主食にしていた。
彼らは黙々と、そのスープを啜る。
あたしも同じように、毎日、毎日、そのスープを飲んだ。
七人の小人は、毎日仕事に出かけ、帰ってきて、ご飯を食べて眠る。
でも、なんであたしが、これをやっているんだろう。
翌日も、七人は同じ間隔で山道を歩いた。
ある日、一人が熱を出して寝込んだ。
残りの六人は、いつも通り山道を歩いた。でも、歩幅が、間隔が、どこかずれていた。全員が、それを口にしなかった。
夕食のとき、六人は七人分のスープを飲んだ。
水滴が手の甲を伝って落ちる。
七歳で逃げ出して、もう何年経つだろう。城にいた頃は、こんな手をしていなかった。
食後の皿に触れることさえなかったのに。あたしは、そこにいるだけでよかったの。
世界で一番美しい姫として。
お城にいた頃のあたしを、誰かが見たらなんと言うだろう。
もう、あの頃のあたしじゃないのに。
濡れた手で、また皿を取る。
「きれいなコルセットですよ、お嬢さん」
初めてお婆さんがここに来たのは、七人が出かけた後だった。
お城では毎日着けていたから、懐かしかった。
「お嬢さん、背を向けて。私が締めてあげましょう」
最初は、馴染みのある適度な圧迫感。
けれど、お婆さんの息遣いが荒くなった。
「もう少し、もう少しだけ……」
うめくような声とともに、紐がギリギリと鳴り、肺から空気が絞り出される。
胸の奥で、骨が軋み、何かが潰れる音がした。
視界が白く爆ぜて、あたしはそのまま地面に沈んだ。
気がついたら、コルセットの紐は無残に切られていた。
七人が帰ってきたから助かったのだと、後で聞いた。
ただ、意識の混濁の中で、あたしの胸元に伸びた七対の手が——
互いを弾き飛ばそうと、獣のように競り合っていたことだけは、はっきりと覚えている。
二度目の罠は、息をのむほど美しい櫛だった。
鼈甲(べっこう)に細かい細工が施されていて、城にいた頃でも、こんな細工は見たことがなかった。
「お嬢さんの髪に、とってもお似合いですよ」
震える指先が、あたしの後頭部のまとめ髪をなぞる。
「このあたりに挿せば、お髪(かみ)がより引き立ちますよ」
次の瞬間、重みのある櫛の歯が、髪の束を割り、地肌へと深く押し込まれた。
鋭い熱が走ったと思った瞬間、足元が抜けたように暗い淵へ落ちた。
気がついたら、お婆さんの姿は消え、小人の一人が櫛を手にしていた。
その手は、まだあたしの髪の上にあった。
残りの六人は、入り口に立ったまま動かなかった。
視線だけが、その手に注がれている。
一人が足を踏み出しかけて、止まった。
別の一人が大きく息を吸った。
また別の一人の手が、ゆっくりと握られていく。
それでも、誰も一言も発しなかった。
三度目なのよね。 あたしって、本当に馬鹿だと思う。 どうして、すぐに信じてしまうんだろう。
「お嬢さん、りんごはいかがですか」
お婆さんが荷物の中から取り出したのは、真っ赤な林檎だった。 かすかな蜜の匂いが、鼻先を掠める。
「一口だけ、どうぞ」
その声が、甘い香りとともにあたしの内側へ染み込んでいく。
シャリッ、と小気味よい音がして、冷たい果汁が口いっぱいに広がった。
棺の中で、あたしはどのくらいこうしていたんだろう。
眠っているのか、死んでいるのか。
その違いも、もうどうでもよくなっていた。
そんなある日、蹄の音がした。
閉じた棺の中まで届くほど、はっきりと。
馬が、ふいに止まった。
王子様が手綱を引いたわけでもないのに。
まるで、この場所に呼ばれたみたいに。
来た。ついに来たわ。
どれだけ待っただろう。
ずっとお后様から逃げ続け、二度も死にかけて、
今は棺の中で眠り続けている——
それでも、あたしは救われる。
真実の愛のキスが、あたしを目覚めさせると。
そう信じて疑っていなかった。
木漏れ日が、王子様の金髪を一本一本、黄金に染めた。
サファイアよりも深く澄んだ瞳が、すっと細くなる。
馬を降り、一歩、また一歩と近づいてくる。
その度に、甲冑の金具が静かに鳴った。
棺の前に立った王子様は、しばらく動かなかった。
ガラスの向こうに眠る姫の顔を、ただ見つめていた。
それから、ゆっくりと膝をついた。
まるで祈りを捧げるように。
これほどまでに美しい女性を、
彼は今まで見たことがなかった。
雪のように白い肌、赤く艶やかな唇。
「この唇は、キスを待っているに違いない」
背後では従者たちが固唾を呑んでいた。
楽師がリュートの弦に指をかけ、
姫が目覚めた瞬間に奏でる愛の讃歌の第一音を待っている。
彼は指先で、棺の冷たいガラスをゆっくりとなぞった。
長い睫毛が伏せられ、流れるような金髪が頬にかかる。
形のいい唇の端が、かすかに持ち上がった。
王子様が、棺の蓋をゆっくりと開けた。
バラの香油の甘い香りが、ふわりと漂った。
王子様が、ゆっくりと顔を近づける。
長い睫毛が、重なり合う。
バラの香油が、あたしの鼻腔をくすぐる。
吐息が、届く。
もう、触れそうなほどに。
王子の柔らかな吐息が、あたしの頬に触れた。
—
—
—
でも——
—
変よ、変。
—
(来る。いま、何かが来ようとしている)
なんか変。
やめて。今じゃない。
この完璧な沈黙の中でだけは、絶対にダメ。
—
でも、
—
王子様、キスをするのは今じゃない。
今じゃないんだってば。
お願い、空気を読んで。
あたしを救う前に、あたしの尊厳を救って。
———「綺麗なまま」でいさせて。
—
—
(ぷ、)
(……だめ)
—
プッ~~。
—
—
王子様の体が、固まった。
しばらく、誰も動かなかった。
それから、一歩、また一歩と、遠ざかっていく足音が聞こえた。
甲冑の金具が鳴った。
馬が嘶いた。
蹄の音が、森の奥へ、奥へと、そのまま消えていった。
そして棺の中に、また静寂が戻ってきた。
—
よりによって、なんで今なのよ……
【異聞シリーズ、次なる舞台へ】
棺の中の静寂は、まだ続いている。
だが、次の物語に「眠る女」はいない。
赤ずきんを「無知な少女」に書いたのは誰か。狼を「誘惑する怪物」に仕立てたのは誰か。そして、その「物語」で、誰が得をしたのか。
次回作──異聞: 赤ずきん、作者たちへの処刑宣告──事実が暴く、ペローとグリムの「スケベ心」を、あなたはまだ知らない。
👉 『寓界星』作品目録に戻る」
※アイキャッチ画像:アレクサンダー・ツィック(1845–1907)画。原著:Märchen, Grot'scher Verlag, Berlin所収。(パブリックドメイン)
