見出し画像

「星を見る」「夏の終着点」




「星を見るわ」
深夜、二階のベランダに出したパイプ椅子の上で、彼女は掠れた声でそう呟いた。
「星?」
「そう。ほら、あんなに白くて沢山の粒。今にもこぼれてきそうじゃない?」

指差された空を見上げても、其処には湿った濃紺の闇が広がるばかりだった。街灯の光に邪魔されて、星など、せいぜい一つか二つ、息も絶え絶えに光っているだけだ。それでも僕は否定しなかった。
 八月の終わり、季節が薄紙を剥がすように変わっていく。ぬるい風が二人の肌を撫でて行った。

「もうすぐ、夏が死ぬのね」

リリーは椅子の上で膝を抱えて、寂しげに笑った。リリーというのは、もちろん本名ではない。
 今年の七月、居酒屋のカウンターの隅で、一人泣いていた彼女に声を掛けた。
「どうしたの?」
「行き場を失くしたの」
理由も何も知らない。それだけ言うと彼女は、安い焼酎をあおった。痩せた子猫を拾うように、僕は彼女を自分のアパートへ連れて帰った。
「名前は?」
そう訊いた僕に、彼女は部屋の隅に飾った百合の花を見つめて
「今日からリリーって呼んで」
自分に言い聞かせるように、そう言った。本名も何処から来たのかも聞かない約束を僕はリリーとした。
 二人で過ごした二ヶ月あまりの時間は、まるで水槽に閉じ込められたように濃厚で、それでいて夏祭りで買った金魚のように脆かった。
「夏が死んだら、リリーはどうするの?」
「居なくなるわ。だって私は夏の光がつくった
影法師だもん」
戯れ言だと思って聞き流すには、彼女の横顔はあまりに透明だった。風がそよぐと彼女の肩口から金木犀のような甘い香りが漂った。まだ咲くはずのない秋の花の匂い。
 それが僕らの終わりの合図だった。
「冷たい飲み物でも買って来ようか?」
僕が立ち上がろうとすると、彼女の細い指先が僕のシャツをキュッと掴んだ。
「要らない。もう少しだけ、この星の中に二人で居て」
薄いシャツを通して、僅かに彼女の体温が伝わってくる。だが、その熱は日毎に弱まる夏の日差しのように、どこか頼りなげだった。存在しない星々を見上げ続け、東の空が薄っすらと白み始めた。夜の濃紺が、淡い紫へと溶けていく。街の輪郭が朝の光で姿を表す頃、
「キスして」
リリーが消え入りそうな声で言った。僕は彼女が何処にも行かないように、きつく抱きしめた……つもりだった。
気づくと、朝靄の中にリリーはゆっくりと溶けていった。パイプ椅子の上には、彼女が着ていたリネンのシャツだけが、蝉の抜け殻のようにぽつんと取り残されていた。
 金木犀の香りだけを残して。
リリーは、また来年の夏も、僕と星を見に来てくれるだろうか。僕の二十五歳の夏は終わった。遠くで蜩が鳴いているような気がした。

(了)

#シロクマ文芸部
#風まかせ文芸部

参加させてくださいね♡
よろしくお願いします。

いいなと思ったら応援しよう!