見出し画像

秀吉の「エゴ」をたどる京都旅(4):江戸時代の秘祀「このもと社」


はじめに

稀代の出世人、豊臣秀吉
「人たらし」と呼ばれたその陽気な振る舞いの裏側には、人並み外れて肥大したエゴが渦巻いていました

この旅のシリーズでは、天下人を突き動かした膨大な欲望の痕跡を辿ります。


新日吉神宮の美しい楼門


神になろうとした男

天下を掌握しただけでは飽き足らず、死後は「神」にまでなろうとした秀吉。

彼は「新八幡(いまはちまん)」──武士の守護神・八幡を含む神号を求めました。(※補1)

しかし朝廷はこれを拒否。
豊臣家の神道顧問だった吉田兼見も反対。

最終的には、後陽成天皇より「豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)」──かつて統べた日本の古称「豊葦原中津国」にちなむ神号を賜りました。

剥奪された神格

しかし元和元年(1615年)、この神号は徳川によって剥奪されてしまいます

代わりに与えられたのは「国泰院殿雲山俊龍大居士」という戒名。

ただの故人となった霊は大仏殿裏の五輪塔へと移設され、豊国社には破却が命じられます。

これに対し、北政所が「せめて自然に朽ち果てるままにさせてほしい」と懇願。
彼女の威信が配慮され、一切の修理・改築を禁じる条件で放置されることになりました。


樹下社(このもとやしろ)の謎

秀吉は現在、新日吉(いまひえ)神宮の摂社「豊国神社(樹下社)」で祀られています。


左が樹下社、右は愛宕・秋葉神社
樹下社の扁額


元和元年(1615年)、豊国廟の廃止にともない、新日吉神宮の前身である新日吉社は(妙法院門跡・智積院とともに)廟前へと移転。
のちに再建されます。

豊国社と豊国廟の参道を分断するように立地していたことから、「豊臣の風化を加速させる意図」が噂されることもあったとか。


新日吉社(智積院・妙法院)および豊国社・豊国廟の位置関係


しかし当時の状況を考えると、実態はむしろ逆だったのではないでしょうか。

梵舜と徳川と豊臣の子孫

神龍院梵舜は、豊国廟の社僧であり、吉田兼見の実弟でもありました。

豊国社の放置後も、自身の役宅(神宮寺)が安堵されたことから、秀吉の祭祀を継続していました。

ところが家康の死後、天海との対立や吉田神道の衰退により、みるみるうちに失脚。

同時期に、隣接する妙法院の僧侶から嫌がらせを受けるようになります。
幕府に直訴するも、逆に神宮寺を妙法院に引き渡すよう勧告され、やむなく自身が住職を務める寺へと退去しました。

やがて寛永17年(1640年)、新日吉社が再建。

天明5年(1785年)には樹下神(十禅師、鴨玉依姫神)を勧請し、樹下社が創設されました。

御霊再興の「隠れ蓑」

新日吉社の再建は、もしかすると「神としての秀吉」を復活させる秘策だったのかもしれません。

再建を命じた後水尾上皇の母・近衛前子は秀吉の養女。
再建を主導した妙法院の堯然法親王は上皇の実弟。

実は、彼らにとって秀吉は「義理の祖父」にあたるのです。(※補2)

神号剥奪後、秀吉の御神体は妙法院で密かに祀られていたといいます。
「ブラザーズ」は、それにふさわしい場所を望んでいた可能性があります。

壮大な隠蔽工作の「初手」は、「秀吉担当ヅラ」する梵舜の排除だったのではないでしょうか。

妙法院がもともと新日吉社の別当寺であった事実に、彼らはハナから気づいていたかもしれません。

新日吉社は、後白河上皇が日吉大社から山王七社を勧進して創建し、応仁の乱で廃絶同然の状態にありました。
しかし、実に都合の良い条件が揃っていました。

たとえば、山王七社の一つ「樹下神」は、秀吉の旧姓「木下」に。
神社名は、その幼名「日吉丸」に通じます。

さらに神使は神猿(まさる)──彼の「代名詞」にドンピシャなのです。


新日吉神宮の神猿。逃げないように金網で囲まれている
かなり見つけにくい場所にいる一匹


こうして太閤の霊は、明治に復興するまでのおよそ230年、「符牒」の中に巧妙に隠され続けることができたのでしょう。


御神木のスダジイ。樹齢500〜800年


おわりに

もし、秀吉が希望通り新八幡になっていたとしたら、大坂夏の陣後すぐに抹消されていたと考えられます。
八幡神は、家康が標榜する清和源氏の守護神だからです。

豊臣にとっての長く厳しい「冬の時代」。
最初に手に入れた「木下」の名に立ち戻り、秘密を共有する者たちと、神猿たちに守られながら、彼はそこで静かに眠っていました。

そして今、生前の願いのままに、祭神「国泰院殿前関白大相国」として豊国神社に祀られているのです。


補足:

※1 『御湯殿上日記』慶長4年3月5日条には「秀吉は阿弥陀になりたい」と記されている。当時の宗教観では、それは八幡神のことである。

※2 このコンビは「アンチ徳川」の急先鋒ともいえる。
後水尾上皇は紫衣事件などで幕府と激しく対立。秀吉の神号剥奪の勅許を出すことを強いられてもいる。
また、妙法院は幕府と融和的だったことで知られるが、一方で「皇族門跡」である。
彼らにとって、徳川の禁忌を我が聖域で守り抜くことは一種の政治的抵抗だったとも考えられる。


次回:


参考記事:

− 秀吉編 天下人となった男は、なぜ晩年に自壊していったのか

− ねね編 賢夫人と呼ばれた女性は、実際は何と向き合い続けていたのか

− 茶々編 世継ぎ誕生という慶事は、なぜ豊臣家を地獄へ導いたのか

いいなと思ったら応援しよう!

千倉小夜 面白いと思っていただけたら是非ひとつポチっとな!いただいたチップの一部で豊国神社に参拝し、太閤殿にあなた様のしあわせをお願いしまっする〜