秀吉の「エゴ」をたどる京都旅(5):豊国廟
はじめに
稀代の出世人、豊臣秀吉。
「人たらし」と呼ばれたその陽気な振る舞いの裏側には、人並み外れて肥大したエゴが渦巻いていました。
この旅のシリーズでは、天下人を突き動かした膨大な欲望の痕跡を辿ります。
今回の内容は前回と相補的なので、ぜひ合わせてお読みください。
豊国廟
秀吉の痕跡は徳川によって徹底的に消し去られましたが、明治期に劇的な「復活」を遂げます。
まずは、彼の墳墓・豊国廟(ほうこくびょう)から見ていきましょう。
東山七条から東進し、新日吉神宮の左手を進むと豊国廟の鳥居に突き当たります。


鳥居をくぐると正面に拝殿。
その傍には二基の五輪塔がひっそり寄り添っています。

右の大きいのが秀吉の側室・京極竜子の墓、左が秀吉の孫・国松の墓です。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で処刑された国松の亡骸を、彼女は誓願寺に葬りました。
二人は長らく同じ地で眠っていましたが、明治44年(1911年)、主の眠るこの地へとともに移されました。
彼らの魂に手を合わせたら、いよいよ阿弥陀ヶ峰山頂(標高196メートル)に続く489段の石段を登ります。

二段ごとに踏み面が広くなる特殊な石段は、これが登りやすいか、かえって歩幅を乱されるかで評価が真っ二つ。
いずれにせよ、中腹の唐門にたどり着く頃には、大抵の人はヨレヨレです。
その先の急勾配(手すりなし)を目にして、軽いめまいと絶望を覚えましょう。

幾多の艱難を越えた先にようやくお目見えする秀吉公は、高さ10メートル、重さ約47トンにも及ぶ五輪塔。

彼は今、「神」なので、柏手推奨です。
明治30年(1897年)、没後300年を前に、供養塔の再建計画が持ち上がりました。
発掘調査では甕(かめ)の中からミイラ化した彼の遺骸を発見。
しかし、専門家が立ち会っていなかったため、外気に触れて脆くも崩れてしまいました。
現在は白い絹の布に包まれ、桐の箱に収められて塔の下に安置されています。

■ 豊国廟鳥居までのアクセス
市バス「東山七条」から徒歩10分
プリンセスラインバス「京都女子大学前」から徒歩1分
※ 木々に覆われて見通しが悪く参拝者も少ないため、女性の単独参拝は避けるのが賢明
豊臣風化政策
家康は、常に自らの立ち位置を「正義」に置くことに執着しました。
豊臣の風化政策は単なる物理的な破壊ではなく、論理的かつ体系的に組み立てられた「記憶の塗り替え」でした。
以下に、その代表的な手法を挙げます。
遷座という名の格下げ:秀吉の神号を剥奪。方広寺大仏(山城国)の鎮守であると理屈をつけ、大仏殿回廊裏の目立たない五輪塔へと遷座させる。
妙法院による管理: 徳川に融和的な妙法院を方広寺の住持に据え、1000石を加増。同時に、豊国社に保管されていた遺品や、別当・神龍院梵舜の役宅であった神宮寺も下賜。
智積院の台頭: かつて秀吉と対立した根来寺の僧・玄宥に、秀吉の子・鶴松の菩提寺であった祥雲禅寺の地を充当。これにより、祥雲禅寺は廃寺。(※補1)
物理的な封鎖: 豊国社と豊国廟への参道を新日吉社(いまひえしゃ)で遮断し、周囲を智積院や妙法院といった徳川系列の寺院で包囲する。


これらにより、かつて京都を席巻した豊臣の威光は、事実上消滅しました。
豊臣の再興
そこから約250年の時を経た、明治の治世。
天皇の威信と国家への求心力を高めるため、歴史上の人物が再評価されることに。
そこで楠公(楠木正成)、織公(織田信長)、豊公(豊臣秀吉)が選別され、それぞれに官幣社が創建されます。
こうして、秀吉は再び「神」として、歴史の表舞台へと引き上げられたのです。
おわりに──エゴの逆説
ここで一つ、興味深い事実があります。
秀吉は征夷大将軍の座を望みながらも叶わず、関白に就きました。
それは世襲を前提としない職位であったため、秀次の死によって次代への継承に空白が生じ、豊臣政権崩壊の引き金となりました。
一方、関白は天皇の補佐役であるがゆえに、明治の世での再評価と復活がもたらされました。
これと同じ構造が、彼の「神号」にも見て取れます。
彼は八幡(はちまん)になることを望み、それは叶いませんでした。
しかし、だからこそ八幡を氏神とする徳川による徹底的な破壊を免れ、現代にその名を残すことができたといえます。
己のエゴを押し通したゆえに滅び、エゴが届かなかったゆえに復活を遂げる。
まさに人間万事塞翁が馬。
稀代のエゴが執着を諦めざるを得なかった先に、その願いが成就したという逆説は、現代を生きる私たちへの何よりの教訓かもしれません。
補足:
※1 関ヶ原の戦い翌年、慶長6年(1601年)。玄宥は家康から豊国社の付属寺院の土地建物を拝領し、智積院再興の第一歩を踏み出していた。
次回:
参考記事:
− 秀吉編 天下人となった男は、なぜ晩年に自壊していったのか
− 茶々編 世継ぎ誕生という慶事は、なぜ豊臣家を地獄へ導いたのか
− ねね編 賢夫人と呼ばれた女性は、実際は何と向き合い続けていたのか
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