腐った海の浜辺で、窒素の旅を見た
メキシコ漂流記 #46
またこのにおいの場所に帰ってきてしまった。
保護区の駐車場で車を降りると、まず腐った卵の匂いに気づく。
ここはカリブ海沿いの自然保護区だ。
絶えず吹く海風に、ヤシの木の影が揺れている。
観光パンフレットのような景色を想像して来れば、少し面食らうかもしれない。
真っ白な砂浜は赤紫色に染まり、
期待していた青い海は茶色く濁っている。

砂浜を埋めているのはサルガッソーと呼ばれる海藻だ。
浜辺には30センチ以上積もっている。
腐敗が進み、腐った卵のような硫黄臭を放つ。
保護区の宿舎では電子機器は使ったらすぐカバンに戻せと言われる。
潮風だけじゃなく硫化水素のせいもあって錆びるのが早いらしい。
気がつけば、パソコンのUSBポートは2年で真っ黒に変色してしまった。
海に一歩足を踏み出すと、さらに状況がわかる。
膝まで沈む。
海底には腐敗したサルガッソーが沈殿し、ぬかるみになっている。
さらにその上を、15センチほどの厚さの海藻の絨毯が海面を漂っている。とても歩けるような海ではない。
水中の生き物にも影響が出ているようだ。
サルガッソーで濁った水は、サンゴに必要な光を遮る。
サルガッソーが密集している場所では、魚やカニが死んで浮かんでいるのも目にする。
水の中の酸素が少なくなっているのかもしれない

ただ、水鳥だけは違う。
彼らにとっては、その海藻の筏がちょうどいい休憩場所らしい。
浜に打ち上げられたサルガッソーの表面を剥ぐと、湿った海藻の中にはミミズのような分解者がたくさんいる。
彼らは有機物を分解し、そして水鳥の餌にもなる。
厄介者の藻の中にも、生命の循環がある。
浜に打ち上がったサルガッソーは、手作業で取り除く。
使うのはスコップではない。
牧場で藁をかき出すときに使うような、大きなフォーク状の道具だ。枝分かれした刃の間に海藻を引っかけて、砂浜から掻き出す。

掻き出した海藻は、まず砂浜に広げて干す。
腐ったサルガッソーは夜でも臭うが、昼間に太陽で温められるとさらに強烈になる。
だが炎天下に数日も晒すと水分が抜け、匂いはほとんど消える。
軽くなった海藻を台車に積み、近くの野っ原へ運ぶ。そこにまとめて放る。
海藻を放った場所を見ると、映画『ジュラシック・パーク』に出てくるトリケラトプスの糞のような小山がいくつもできている。


これを見ていると、ふと一獲千金の夢も浮かぶ。
一部の地域では、建築資材に混ぜたり、化粧品の原料を取り出したりする研究もあるらしい。
とはいえ、道路が分断され電力も安定しないこの南部の田舎では簡単ではなさそうだ。
そんなことを考えている間にも、次のサルガッソーがどんどん漂着してくる。
空いた砂浜には、また湿ったサルガッソーを広げて乾かす。
今日積み上げた量と、海から常に供給される量を見ると、除去作業の効果なんてほんのわずかだ。
でも、やらないと白い砂浜を目にすることはないだろう。
砂浜からの船の出航はますます困難になる。
だからやるしかない。

メキシコ、キンタナロー州の北部、カンクン周辺のホテルゾーンでは大型の重機でサルガッソーを回収しているらしい。
長く続くビーチなら、それが可能だ。
だが、ここ南部ではそうはいかない。
海岸沿いの道路は連続しておらず、それぞれの浜へ出るには内陸の道路から細い小道に入る必要がある。
重機を入れるのは簡単ではない。
時には海軍が回収船を出して海上から回収したり、砂浜に大人数の海兵を動員して人海戦術で掻き出し作業を行っているのを眼にする。


それでも全然追いついていないのが現状だ。
いったいどれだけの量が流れてくるのか。
保護区ではカナダの研究者がドローンを飛ばして航空写真を撮り、網ですくって厚みを測り、サルガッソーの筏にGPSを付けて追跡するなど、さまざまな観測が行われている。

時にはその観測を手伝いながら、漂着したサルガッソーを掻き出し、干して、陸に運ぶ。

半年前に海藻を積み上げた場所に行くと、もう景色が変わっている。
地面にサルガッソーは見えず、人の背丈ほどの草が密集する。
海の藻が、陸の草になっている。

サルガッソーは栄養の塊だ。
農地で使われた肥料が川を下り、海で藻を育てる。
その肥料の多くは、人間が空気から作ったものだ。
空気中の窒素を化学的に固定する技術——ハーバー・ボッシュ法によって。
空気から作られた窒素は、畑を肥やし、川を流れ、海で海藻になる。
そして今、カリブ海の浜辺でフォークに引っかかっている。
乾いたサルガッソーをまた一山、野っ原に放る。
半年後には、ここもきっと草になる。
空気から始まった窒素の長い旅は、どうやらここまで来ているらしい。
その終着点の浜辺で、今日も僕は海藻を掻き出している。
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ちなみに、窒素循環については以前もう少し真面目に整理した記事があります。
興味がある方はこちら↓
