教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|上巻・第十八章 シャロンとランス降伏/戴冠式
【アナトール・フランス『ジャンヌ・ダルクの生涯』完訳プロジェクト】1908年発行の名著を、膨大な独自注釈とともに現代日本語で蘇らせる個人翻訳プロジェクトです。継続的な活動維持と出版支援のため、一部を有料公開としています。
▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか
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【この章のポイント】
- フランス王シャルル七世の戴冠と聖別
- ジャンヌの私的な再会と故郷への恩恵
- 和平への模索とブルゴーニュ公の二枚舌
18.1 シャロンの町
トロワを出発した王軍は、シャンパーニュ地方のさびれた地域に入ると、アルシ(Arcis)の近くでオーブ川を渡り、シャロンから5リーグ(12.5マイル/20キロ)離れたルットル(Lettrée)に宿営した。
シャルル王はルットルから、使者モンジョワをシャロンの町に派遣し、王を迎え入れて服従を誓うよう求めた。[1471]
シャンパーニュ地方の町々は、まるで一本の手の指のように密接な関係で連なっていた。
王太子がまだブリニョン大司教(Brinion-l'Archevêque)の宿舎にいたころ、シャロン市民はトロワの同胞からこれまでの顛末を知らされていた。説教者のリシャール修道士が、ジャンヌ・ラ・ピュセルの手紙を持ってきたことさえ知っていた。
そこでシャロン市民も、ランス(⚠️トロワへの返信ではない。遠征軍の目的地ランス)市民に宛てて次のような手紙を書いた。
「リシャール修道士には驚かされる。
我々は、彼を立派な人物と評価していた。
しかし、彼は魔術師になってしまった。
トロワ市民が王太子の兵士たちと戦っていることを伝える。
我々も、全力を尽くして敵に抵抗する決意である」[1472]
とはいえ、彼ら(シャロン市民)は自分たちが書いたものを一言も信じておらず、ランス市民も本気にしないだろうとわかっていた。
しかし、別の君主を迎える前に、ブルゴーニュ公に対して強い忠誠心を示す(筋を通す)ことは重要だった。
シャロン司教兼伯爵のジャン・ド・モンベリアール=ザールブリュックは、国王を出迎えるためにわざわざルットルまで会いに来て、町の鍵を国王に渡した。彼はコメルシーの領主の一人だった。[1473]
⚠️コメルシーの領主(Sires de Commercy):上巻・第一章で、ジャンヌの故郷近郊を荒らし回っている略奪者の中に「コメルシーの若領主、ロベール・ド・ザールブリュック」と呼ばれる人物が何度か登場している。シャロン司教の息子か近親者と思われる。
7月14日、国王とその軍隊はシャロンの町に入った。[1474]
そこで、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は故郷の村から来た農民4〜5人と、ジャンヌの親戚であるジャン・モレルと会った。
当時43歳くらいの農夫で、兵士たちが村を通り過ぎる際にダルク一家とともにヌフシャトーに避難したことがある。ジャンヌは彼に、自分が着ていた赤いガウンを贈った。[1475]
シャロンでは、モレルより10歳ほど若い、エピナル出身のジェラルダンという別の農夫にも会った。
ジャンヌは彼を「compère(代父・霊的な身内)」と呼び[1476]、ジェラルダンの妻イザベレットを「commère(代母)」と呼んだ。[1477]
なぜなら、ジャンヌは彼らの息子ニコラを洗礼盤の上で抱き上げた(名付け親になった)からで、霊的な意味で母親だったからである。
⚠️Commère:日仏辞典では「おしゃべり女、噂好きな人」と訳されているが、父・母に次ぐ「名付け親、共同親」のこと。古フランス語に由来する伝統的な言葉だが、現在も法律用語「共同親権者」という意味で使用されている。
村にいたころのジャンヌは、ジェラルダンがブルゴーニュ派だという理由で彼を信用していなかった。
しかし、シャロンでのジャンヌは、ジェラルダンに信頼を示し、軍の進軍状況について語りながら「裏切り以外は何も恐れていない」と言った。[1478]
すでにジャンヌは暗い予感を抱いていた。おそらく、これからは自らの魂の純真さ(frankness)と心の単純さ(simplicity)が、人々の邪悪さや、状況の混乱させる力によって、激しく攻撃されると感じていたのだろう。
⚠️ジャンヌの性質について補足。
🔸純真さ(frankness/candeur):相手のことを考えずに、ありのままに振る舞う性質。汚れを知らない純真無垢さ。
🔸単純さ(simplicity/simplicité):気取らない態度のこと。一般的なシンプル(simple)と違い、人の性質や概念を意味する。
どちらも人の性質を表す言葉で、ようするに「裏表がない」。正直さは信頼される一因になるが、配慮・遠慮のなさは相手を不快にさせることもある。ジャンヌは自分の性質を快く思わない者がいることに気づいていたのかもしれない。
聖ミカエル、聖カタリナ、聖マルガリータの言葉は、すでにその原始的な明瞭さをいくらか失っていた。なぜなら、それら「ジャンヌの声」は、もはや天上の事柄ではなく、フランスとブルゴーニュの国家機密を扱うようになっていたからである。
⚠️補足:世俗の事柄に深く関わることで、初期の神秘性を失いつつあった
シャロン市民は、ランス市民に宛てて「同胞のトロワ市民の例に倣って、フランス国王を迎え入れた」ことを伝える手紙を書き、「皆さんも同じようにするといい」と勧めた。
この手紙の中で、彼らは「シャルル王が親切で、優雅で、情け深く、慈悲深いことを知った」と述べている。実際、国王はシャンパーニュ地方の町々に対して寛大に接していた。
シャロン市民は、さらに「国王は偉大な精神と立派な態度の持ち主だ」と付け加えた。[1479] それは大いに意味のある、重要な発言だった。
18.2 ランスの町(1)主君を変える奸計
⚠️念のため補足:ランス(Reims)の町は、フランス王が聖別されて戴冠式を挙げるノートルダム大聖堂がある。フランス北東部シャンパーニュ地方の都市で、今回の遠征の最終目的地。当時はイングランドとブルゴーニュ公の支配下にあり、シャルル七世からすれば敵地に侵入するも同然だが、各都市の門をひらかせることで真のフランス王が誰であるかを知らしめる効果がある。
ランス市民はきわめて慎重に行動した。
フィリップ公(ブルゴーニュ公)およびブルゴーニュ軍とイングランド軍の隊長たちに使者を派遣して、「フランス王が町の近くに到着したら、町の門を開かざるを得ない」ことと、これまでに把握している「王軍の進行状況」を伝えて、敵の進軍に対抗するよう要請した。[1480]
しかし、ランス市民は救援を得ることを急がなかった。
もし援軍が来なければ、ブルゴーニュ側から非難されることなくシャルル王に降伏できる。どちらの陣営からもおびやかされる恐れがないようにと企んでいたからだ。
しばらくの間、ランス市民は両陣営への忠誠を維持した。
このようなやり方は、非常に困難で危険な状況下では賢明な判断だった。
シャンパーニュ地方のこれらの町が、いかに巧妙に「主君を変える」奸計を駆使していたかを観察する際には、彼らの生命と財産がかかっていたことを忘れてはならない。
*
早くも7月1日には、フィリベール・ド・モラン隊長(トロワに駐留していた守備隊の隊長)がノジャン=シュル=セーヌからランス市民に手紙を書き送った。彼はブルゴーニュ軍とともそこに滞在中で、「もし救援が必要なら、善良なキリスト教徒として助けにいく」と伝えた。[1481]
ランス市民は、この申し出を理解できないふりをした(無視した)。
結局のところ、フィリベール・ド・モランは、ランス市民が当てにできる隊長(指導者)ではなかった。彼の提案は、彼自身が言うように、キリスト教徒としての慈悲心・慈善行為にすぎなかった。
本心では援軍を望んでいないランスの有力者たちは、何よりもまず、彼らランス市民のもともとの解放者であり、町の総督かつフランス大執事長を務めるシャティヨン卿の動向に用心しなければならない。[1482]
「Et tribuit eis petitionem eorum.(神は彼らの要求を許した/願いを叶えた)」
イスラエルの民のようにならないよう、ランス市民は「願いが叶わない方法」で助けを要求しなければならない。
⚠️シャティヨン家(Chastillon):シャンパーニュ地方の伯爵家。サン=ポル、ブロワ、パンティエーヴル、シャルトルなどフランス各地に分家が拡散し、いずれも有力貴族。なお、シャルル七世に仕えるランス司教のルニョー・ド・シャルトルは分家筋。
⚠️イスラエルの民(Israelites):旧約聖書『出エジプト記』からの引用。虐げられていたイスラエルの民(ヘブライ人、ユダヤ人)は奴隷の身分から解放されたが、居場所を失い、長い間荒野をさまよう。
18.3 ランスの町(2)シャルル七世の手紙
フランス軍がまだトロワの城壁の前にいたころ、ランスの門前に伝令が現れた。国王が7月4日の月曜日にブリニョン=ラルシュヴェック(ブリニョン大司教の宿舎)滞在中に書いた手紙を託されていた。
この手紙は、すぐに町の評議会に届けられた。
「あなたがたはすでにご存知だろう」
手紙の中で、シャルル七世はランス市民に語りかけている。
「ランスの善良な民よ、あなたがたはすでに、
神が私たちに与えてくださった、
古くからの敵であるイングランドに対する
勝利と成功の知らせを聞いているだろう。
それは、オルレアン市の前で、
その後はジャルジョー、ボージャンシー、
ムン=シュル=ロワールで起こり、
それぞれの場所で敵は甚大な損害を受けた。
彼らの指導者および、その他4000人もの人々が
殺されるか、あるいは捕虜になった。
これらは、人智の力というよりも
神の恩寵によって起こったのである。
そこで私たちは、
血統貴族と王室評議会の助言に従い、
聖油を塗り(聖別し)、王冠を戴くために
ランスに向かっている。
したがって、あなたがたは、
私たちに負っている忠誠と服従に基づき、
歴代国王におこなってきたことと同じように
私たちを慣例通りに迎え入れる準備をするように」[1483]
そしてシャルル王は、トロワ市民に示したのと同じく、賢明で寛大な態度をランス市民にも示し、完全な赦免と忘却を約束した。
「過去の出来事や、私たちがそれを思い出すかもしれないという恐れに惑わされてはならない。現在のあなたがたが、私たちに対して当然の義務を尽くすならば、善良で忠実な臣民にふさわしい扱いをすることを保証する」
王はさらに、自分と交渉するために町の有力者を派遣するよう要請した。
「私たちの意図をもっと詳しく知るために、
ランス市民の何人かが、派遣した伝令とともに
来てくれるなら、私たちは大いに喜ぶだろう。
あなたがたが安全に来れることを保証する。
あなたがたが良いと思う人数で構わない」[1484]
王の手紙が届けられると、評議会が招集されたが、審議に必要な人数が足りなかったため決議できず、評議会メンバーは深刻な困惑から解放された。
そこで、一般市民が市内のさまざまな地区に集められた。
こうして市民から聞いた意見を取りまとめて、次のような狡猾な宣言文を作り上げた。
「私たち市民は、評議会および有力者たちと
生死を共にするつもりです。彼らの助言に従います。
ランスの司令官と副官による助言と命令がない限り、
私たちは不平を言わず、(シャルル七世に)返事も出さず、
協力して平和的に行動します」[1485]
⚠️王の一人称「尊厳/君主の複数」について補足:
英語でRoyal we、仏語ではNous de majestéという、君主特有の言葉遣い。
君主が自分自身を指して用いる複数代名詞で、「我々/私たち」となっているが王個人を指している。国家と個人が一体化している君主ならではの一人称。
一般人が自我を抑えて謙虚さを示すために用いる「私たち」と、君主の威厳を示す「私たち」を区別する必要がある……と辞書などに注意書きされているが、日本人にはなかなか理解しにくい。
一般的になじみがない言葉だが、現在も外交文書で使われている。
例えば、君主が君主に宛てた手紙では単数形の一人称(私)を用いるが、大統領や首相に宛てた書簡では君主の複数(我々/私たち)を用いる。
18.4 ランスの町(3)雄弁は銀、沈黙は金
当時、ランス市の司令官(Commander)だったシャティヨン卿は、二人の副官(Lieutenants)ジャン・コーションとトマ・ド・バゾッシュとともに、シャトー・ティエリーに駐留していた。二人とも騎士だった。
ランス市民は、彼にシャルル王の手紙を見せるのが賢明だと考えた。
代官(Bailie)のギヨーム・オディエルヌは、隊長領主(Lord Captain)でもある彼のところへ行き、手紙を見せた。
代官は、ランス市民の感情を非常に忠実に表現した。
シャティヨン卿に救援に来るよう頼んだが、彼が来れないような頼み方をした。
これこそが、最も重要な点だった。
なぜなら、救援を要請しなければ、市民は反逆罪で告発されるかもしれず、かといって、本当に救援が来たら、市民は悲惨で危険な包囲戦に耐えなければならない。どちらにしても市民は危険にさらされる。
この目的のために、代官は「ランス市民は隊長と連絡を取りたいと思っており、《《騎兵50騎まで》》なら受け入れる用意がある」と宣言した。
ここで市民は善意を示した。
ランスの町は「城壁内に軍隊を入れることを拒否する権利」を持っていた。
特権があるにもかかわらず、ランス市民は騎兵50騎、つまり戦闘員200人という条件付きで受け入れることに同意した。
⚠️補足:シャルル七世が率いる遠征軍の規模は3万人。
予想通り、シャティヨン卿は「その程度の人数では、自分自身の安全さえ確保できない」と判断した。
彼は、救援に出向く条件として、(1)町が食料を供給し、防衛態勢を整えること、(2)戦闘員300~400人を連れて入城すること、(3)城だけでなく町の防衛もすべて任せること、(4)町の有力者5~6人を人質として引き渡すことを要求した。
これらの条件を満たせば、シャティヨン卿は「ランス市民のために生死を共にする覚悟を決める」と宣言した。[1486]
実際に、シャティヨン卿は部隊を率いて町のすぐ近くまで進軍し、市民に救援に来たことを知らせた。[1487]
イングランド軍はあらゆる場所で兵士を募集し、あらゆる種類の人々を軍務に就かせていた。聖職者にまで武装させた。摂政(ベッドフォード公)は実際に、ウィンチェスター枢機卿がフス戦争に参戦する予定でフランスに上陸させた十字軍の兵士を、(フランス軍と戦うための)兵役に駆り立てていた。[1488]
そして、ヘンリー王の評議会(イングランド側)は、集めた軍勢の進軍状況についてランス市民に知らせることを忘れなかった。
7月3日には、イングランド軍が海を渡っていると伝えた。
7月10日には、ヴェルマンドワの代官であるコラール・ド・マイイが「軍隊が上陸した」と発表した。
しかし、これらの知らせは、シャンパーニュ地方の人々にイングランド軍を信頼させるほどの力がなかった。
シャティヨン卿が「(包囲戦に耐えれば)40日以内に海の向こうから大軍が到着する」と約束していた頃、シャルル王は兵士3万人を率いてランスの城門までわずか数マイルのところに来ていた。
シャティヨン卿は、以前から疑っていたとおり、自分はランス市民に欺かれたと悟った。市民は、要請した援軍を町に入れることを拒否したのだ。
彼に残された道は、引き返してイングランド軍に合流することだけだった。[1489]
7月12日、ランス市民は、ランス大司教で公爵のルニョー・ド・シャルトル卿から、国王の来訪に備えるよう求める手紙を受け取った。[1490]
その日、町で評議会が開かれ、書記官は審議の経過について公式報告書を作成した。
「……シャティヨン卿に、彼が司令官であり、領主たちと大衆が……であることを伝えたあと……」[1491]
それ以上何も書かれていなかった。
シャルル王の戴冠式の準備をしながら、イングランドへの忠誠を主張するのは無理がある。強制されたわけでもないのに、新しい君主を承認するのは賢明ではない。そう気づいた市民は、突然、雄弁という「銀」を放棄し、沈黙という「金」に逃げ込んだ。
⚠️雄弁は銀、沈黙は金(Speech is silver, Silence is golden):英語の慣用句。ようするに、ヘンリー六世からシャルル七世へ主君を乗り換えることは、どう言い訳しても筋が通らない。不義理・無分別な裏切り行為だと気づいたので、ランス市民は急に口をつぐんでしまった。経過報告をまとめた公文書もうやむやで歯切れが悪い。
18.5 戴冠式前夜、王権を象徴する至宝
7月16日の土曜日、シャルル王は戴冠式をおこなうランスから4リーグ(10マイル/16キロ)離れたセプト=ソール城に宿泊した。ここの要塞は、ルニョー・ド・シャルトル卿(ランスの大司教)の好戦的な先祖によって200年前に建てられたもので、その威風堂々とした主塔はヴェスル川の渡河地点を見下ろしていた。[1492]
そこでシャルル七世は、王に敬意を表すために来訪した大勢のランス市民を迎えた。[1493]
その後、王は乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)と全軍を率いて行軍を再開した。ヴェスル川の河岸に沿って、曲がりくねった街道の最後の区間を通り過ぎると、日暮れ時にシャンパーニュ地方の大都市ランスに入った。
南門のディウリミール門は、王を通すために跳ね橋を下ろし、二つの落とし格子を上げた。[1494]
伝統によれば、戴冠式は日曜日に行われるべきだった。
この決まり事は、ルイ八世の戴冠式から始まったとされる。権威があるとみなされ、儀式書にも記されていた。[1495]
ランス市民は、翌日までにすべての準備が整うように徹夜で作業した。[1496]
彼らは、フランス王に対して突発的な愛情を抱いていたが、国王とその軍隊[1497]が何日も居座るのではないかという恐怖にも駆り立てられていた。
門の中(町の中)に兵士を入れて、その状況を維持することへの嫌悪感は、あらゆる町の市民に共通していた。彼らには、アルマニャック兵もイングランド兵もブルゴーニュ兵も区別がつかず、戦々恐々としながら過ごした。
そのため、市民はあらゆることに勤勉だったが、できるだけ費用を安く抑えようとしたたかに決意を固めていた。
戴冠式は、市民にとって利益にも名誉にもならないと考えており、町の評議員たちはその負担を大司教に押し付けるのが常だった。大司教はフランスの貴族として[1498]、報酬を受け取るだろうからと彼らは主張した。

(CHARLES VII, KING OF FRANCE. From an old engraving)
先王シャルル六世の戴冠式の後、サン=ドニ大聖堂の聖具室に納められていたフランス王の装飾品は、イングランドの手に渡っていた。
歴代フランス王が戴冠式で授けられた、「ルビー、サファイア、エメラルドで輝き、4つのフルール・ド・リス(アヤメの紋章)で飾られたシャルルマーニュ(カール大帝)の王冠」を、イングランドは自国の王ヘンリー六世の頭上に載せようと画策していた。

⚠️フランス王の王冠について補足:ブルボン王朝以降の王冠は一代限定で、代替わりするごとに新規作成していたが、ヴァロワ王朝時代は「シャルルマーニュの王冠」と「聖王ルイの王冠(王妃用)」を代々継承していた。
他にも、彼らはこの幼い王(ヘンリー六世)に、シャルルマーニュの剣として名高いジョワユーズを帯びさせようとしていた。その剣は、菫色のベルベットの鞘に収められたまま、ブルゴーニュ派のサン=ドニ修道院長のもとで眠っていた。
同様に、イングランドの手中には、▼皇帝の衣装をまとった金のシャルルマーニュ像が頂上にある王笏、▼ユニコーンの角でできた「正義の手」が先端についた杖、▼聖王ルイのマントの金の留め具、▼金の拍車、そして▼銀メッキの七宝装飾(エナメル)の縁飾りが施された表紙の中に戴冠式の儀式書が収められた教皇典礼書もあった。[1499]
⚠️「訳者のこぼれ話:フランス王家の宝器について」で後述。画像付き。
そのため、フランス陣営は、ランスのノートルダム大聖堂の聖具室に保管されていた冠を代用して間に合わせなければならなかった。[1500]
初代国王クロヴィス、聖シャルルマーニュ、聖王ルイから受け継がれてきた王権を象徴するその他の品々も、できる限り再現しなければならない。
結局のところ、一度の遠征で勝ち取ったこの戴冠式が、これまでに費やされた労力と苦難を表現していることは悪いことではない。(むしろふさわしい)
この儀式が、王太子シャルルをここまで連れてきた兵士や庶民たちの英雄的な欠乏(heroic poverty)を暗示しているのは、良いことだった。
訳者のこぼれ話:フランス王家の宝器について
補足資料として、本文で登場した宝器を紹介します。
なお、画像はパブリックドメインです。キャプションは本文からの引用。
フランス王の戴冠式に使用された道具(Regalia du royaume de France)、すなわち「王家の宝器(Ornements Royaux)」はそのほとんどがフランス革命時代に当局によって破壊され、現存するのは(1)王剣ジョワユーズ、(2)シャルル五世の王笏、(3)ルイ15世の王冠の3点のみ。


(Le sceptre de Charles V)
革命の嵐を生き残ったのは上記2点とルイ15世の王冠(本作の時代ではないため省略)。シャルル七世が身につけ、ジャンヌが見た現物だと思うと感慨深いです。
その他の宝器はのちに復元されて、現在はサンドニ大聖堂またはルーブル美術館に保管されています。

(Main de justice)


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