教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|下巻・第一章 国王軍、ソワソンからコンピエーニュへ/詩と予言
【アナトール・フランス『ジャンヌ・ダルクの生涯』完訳プロジェクト】1908年発行の名著を、膨大な独自注釈とともに現代日本語で蘇らせる個人翻訳プロジェクトです。継続的な活動維持と出版支援のため、一部を有料公開としています。
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【この章のポイント】
- 戴冠式後の外交的行軍と軍事的停滞
- 戦火に荒廃するフランスの悲惨な実情
- ジャンヌをめぐる新予言と詩人たちの熱狂
1.1 戴冠式後の行軍、ヴァロワ家の父祖の地へ
⚠️下巻・第一章の章題「ソワソンとコンピエーニュ」はヴァロワ家がフランス王位を継承する前、ヴァロワ公爵だったころの領地です。ランスでの戴冠式の後、シャルル七世は祖先の公爵家時代の領地を訪れて、各都市と臣従関係を結ぼうとしていたようです。この辺の時代背景を知っていると、第一章の流れが理解しやすいかと。
7月22日、シャルル王は軍を率いてエーヌ川の溪谷を下り、ヴァイイと呼ばれる場所でソワソンの町の鍵を受け取った。[1]
この町はヴァロワ公爵領の一部を構成しており、今はオルレアン公爵家とバル公爵家が共同で統治していた。[2]
一人目の公爵(オルレアン公シャルル・ドルレアン)はイングランド軍の捕虜となっている。もう一人(バル公ルネ・ダンジュー)は義兄であるシャルル王を通じてフランス側と繋がり、義父であるロレーヌ公を通じてブルゴーニュ側とも繋がっていた。
⚠️ヴァロワ公(Duc de Valois):フランス王国カペー朝の傍系だったが、カペー家の男系男子が断絶したためヴァロワ家が王位を継承。シャルル七世の本名はシャルル・ド・ヴァロワで、ヴァロワ朝5代目のフランス王にあたる。
そのような事情があったため、ソワソン市民の忠誠心が揺れ動くのも無理はない。
武装した兵士たちに踏みにじられ、占領と奪還を何度も繰り返す中で、赤い帽子(イングランド方)と白い帽子(フランス方)の勢力はどちらも交互に川へ投げ込まれる危険に晒されていた。
ブルゴーニュ軍は家々に火を放ち、教会を略奪し、有力な市民を虐げた。
続いてアルマニャック軍が押し寄せ、あらゆるものを略奪し、男も女も子供も多数虐殺し、修道女も良家の人妻も清らかな乙女も凌辱された。サラセン人(異教徒、イスラム教徒)でもこれほど酷いことはしなかっただろう。[3]
ブルゴーニュ兵を袋詰めにしてエーヌ川に投げ込み、町の女性たちがその袋を縫っている姿が目撃されていた。[4]
*
シャルル王は、23日土曜日の朝方にその都市(ソワソン)に入城した。[5]
赤い帽子の人たちは身を隠した。
鐘が鳴り響き、民衆は「ノエル(万歳)」と叫び、市民たちは王にバーベル(ひげのある魚)2匹、羊6頭、そしてボン・シュレ(少し酸味のあるワイン)6ガロン[6]を献上し、その量が少ないことで許しを請うた。戦争で破産してしまったのだと言い訳した。[7]
⚠️バーベル(barbels):ニゴイ科の淡水魚。バル公(ルネ・ダンジュー)の紋章に描かれている魚でもあり、文脈的に、この献上物は領主への敬意を表す象徴的な意味合いが強い。
⚠️ボン・シュレ(bon suret):少し酸味のあるワイン。ここでは、戦争で困窮した市民が「これっぽっちしか用意できず、しかも酸っぱい安ワインですが……」と申し訳なさそうに差し出すイメージ。
彼らはトロワ市民と同じように特権を行使し、兵士を養うだけの食糧がないという理由で、門を開けることを拒否した。軍はアンブルニーの平野に野営した。[8]
**
当時、国王軍の指導者たちはコンピエーニュに進軍するつもりだったようだ。
実際、フィリップ公(ブルゴーニュ公)からこの町を奪取することは重要だった。(コンピエーニュは)イル・ド・フランス地方の要衝で、公が軍を集結させる前に占領すべき場所だったからだ。
しかし、この戦役を通じて、フランス王は武力よりも外交と説得によって町を取り戻す決意を固めていた。
7月22日から25日にかけて、王は三度にわたりコンピエーニュの住民に降伏を勧告した。
市民は「やむを得ず応じる姿勢を見せたい」と画策し、時間を稼いでから、ようやく交渉に応じた。[9]
ソワソンを離れた国王軍は、29日にシャトー=ティエリに到着した。
終日、城門が開くのを待ち続けた。夕刻、王は城内に入った。[10]
***
クーロミエ、クレシー=アン=ブリー、プロヴァンがシャルル王に降伏した。[11]
8月1日の月曜日、国王はシャトー=ティエリ橋でマルヌ川を渡り、その日のうちにモンミライユに宿営した。翌日にはプロヴァンスに到達し、セーヌ川の渡河地点とフランス中央部の幹線道路のすぐ近くに迫った。[12]
軍は飢えに苦しみ、荒廃した田園や略奪された都市では食糧を何も見つけられなかった。物資不足のため、ポワトゥーへの撤退準備が進められていた。
しかし、この計画はイングランド軍によって阻止された。
守備兵のいない無防備な町々が陥落していく中、イングランド摂政(ベッドフォード公)は軍を集結させていた。その軍は現在、コルベイユとムランへ進軍していた。
敵軍の接近に先駆けて、フランス軍はプロヴァンから約12マイル離れたラ・モット=ナンジを占領し、そこの平坦で均一な土地に陣を構えた。そこは、当時の戦闘様式にふさわしい、戦いを繰り広げるのに適した場所だった。
フランス軍は丸一日、戦闘態勢を維持した。
しかし、イングランド軍が攻撃してくる気配はなかった。[13]
1.2 ランス市民の不安とジャンヌの手紙(1)
一方、ランスの人々は「シャルル王がシャトー=ティエリを出発し、セーヌ川を渡ろうとしている」との知らせを受け取った。
見捨てられたと思い込んだ彼らは、イングランド軍とブルゴーニュ軍が、アルマニャック派の王の戴冠式をしたこと理由に、重い代償を払わされる(報復される)のではないかと恐れた。実際、彼らは大きな危機に直面していた。
8月3日、彼らはシャルル王に、服従した都市を見捨てないよう懇願する使者を派遣することを決めた。使者はただちに出発した。
翌日、彼らは良き盟友であるシャロンとラオンの市民に、「シャルル王がオルレアンとブールジュへ向かっているという知らせを聞いて、使者を送った」旨を伝えた。[14]
*
8月5日、国王がまだプロヴァン[15]かあるいはその近郊にいたころ、ジャンヌはパリへ向かう道中の野営地からランス市民に宛てて手紙を送り、その中で「忠実で愛すべき友を見捨てることはない」と約束している。
ジャンヌは、ロワール川方面への撤退計画についてまったく疑っていなかったようだ。
したがって、ランス市当局がジャンヌに手紙を送っていないこと、またジャンヌが王の評議会(軍議)に加わっていないことは明らかである。
ただし、ジャンヌは、国王がブルゴーニュ公と15日間の休戦協定を結んだことを把握しており、そのことをランス市民に伝えている。
しかし、この休戦は、彼女にとって不愉快なもので、それを守るかどうか疑念を抱いている。
仮に、ジャンヌがそれ(休戦協定)を守るとしても、それは王の名誉のためだけに過ぎず、それ(休戦協定)に策略がないと確信する必要がある。したがって、ジャンヌは国王軍を統率し、休戦期間が明ける15日後にはいつでも進軍できるよう準備しておくつもりだと述べている。
また、手紙の結びで、ジャンヌは町民に対して「警戒を怠らず、必要があれば知らせてほしい」と勧めている。
以下が、ジャンヌがランス市民に送った手紙の内容である。
「良き友であり、愛するランス市の
善良で忠実なフランス人のみなさん。
ジャンヌ・ラ・ピュセルは、彼女の近況をみなさんに伝え、
王家の血筋のために彼女が守る正義の大義を疑わないよう、
みなさんに祈り、求めます。
そして私が生きている限り、決してみなさんを
見捨てることはないと誓い、保証します。
王がブルゴーニュ公と
15日間の休戦協定を結んだことは事実です。
これにより、ブルゴーニュ公は15日後に
パリ市を平和的に明け渡すことになっています。
とはいえ、私がすぐにパリに入らないとしても
驚かないでください。
なぜなら、この休戦は私の意に反するもので、
私がそれを守るかどうかわかりません。
仮に、休戦を守るとしても、
それは王の名誉を守るためだけであり、
もっといえば、彼らが王家の血筋を
罠にかけることを許さないためです。
協定が守られなかった場合、
15日後にはいつでも出陣できるよう、
私は王の軍勢をまとめて維持するつもりです。
ですから、私の愛する完璧な友よ、
私が生きている限り、不安に思わないでください。
みなさんには、警戒を怠らずによく見張り、
王の良き都市をしっかり守るよう求めます。
もし害をなそうとする裏切り者がいれば
私に知らせてください。
私はできるだけ速やかに、
みなさんの中から裏切り者を排除します。
みなさんの近況を私に知らせてください。
神にみなさんを委ねます。
神がみなさんを守ってくださいますように。
8月5日金曜日、プロヴァン近郊[16]の田園
またはパリへ向かう野営地で記す。
宛先:ランス市の忠実なフランス人へ」[17]
1.3 ランス市民の不安とジャンヌの手紙(2)
手紙の書記を務めた修道士(パスケレル)が、口述された内容を忠実に書き留め、ジャンヌ・ラ・ピュセルの言葉そのもの、ロレーヌ方言まで再現したことは間違いない。
ジャンヌは当時、すでに英雄的な聖人として最高潮に達していた。
この手紙の中で、ジャンヌは自分自身に超自然的な力を与えており、国王とその顧問と隊長たちがこれに従わなければならないと宣言している。
条約の承認または破棄する権利をみずからにのみ帰属させ、軍隊の指揮権も完全に掌握している。そして、天の王の名において命じているため、ジャンヌの命令は絶対である。
⚠️念のため補足:ジャンヌはそう思っているが、実際は違う。王も評議会も、軍の幹部たちも、ジャンヌが思っているほど権限を与えていないし、「声」の助言に影響されていない。
神の使命を託されたと自認するすべての人に必然的に起こる現象が、ジャンヌにも生じている。
すなわち、彼らは既存の権力を超越する「上位の精神的かつ世俗的権力」をみずからに与え、それゆえ必然的に(既存の権力に)敵対する存在となった。
これは危険な幻想であり、衝撃を与えるものだ。
そして、その衝撃で最も苦しむのは大抵、啓示を受けた本人である!
*
聖人や天使たちと暮らし、語り合い、勝利の教会(天国)の輝きの中で過ごす日々の中で、この若い農民の娘(ジャンヌ)は、すべての力、すべての思慮、すべての知恵、すべての助言が自分の中に宿っていると信じるようになった。
これはジャンヌが知性に欠けていたことを意味するのではない。
むしろジャンヌは、「ブルゴーニュ公が使節団を派遣して国王を翻弄している」こと、「シャルル七世は、華麗さに偽装した狡猾さを心得た君主(ブルゴーニュ公)に欺かれている」ことを正しく見抜いていた。
フィリップ公(ブルゴーニュ公)は平和の敵だったわけではない。それどころか平和を望んでいたが、イングランドと公然と争う事態を避けたいと考えていた。
ジャンヌは、ブルゴーニュとフランスの事情をほとんど知らなかったが、その判断力は決して鈍くなかった。
フランス王とイングランド王の立場については、争いの原因が「王国の領有権」にある以上、「両者の合意は不可能」だと、ジャンヌの考えは極めて単純だが正確に理解していた。
同様に、フランス王とその最大の家臣であるブルゴーニュ公との関係についても、正確な見解を示している。「両者の和平は可能」であり、望ましいだけでなく、相互理解を築くことが必要不可欠であることを。
ジャンヌはすでに、「ブルゴーニュとの和平」および「イングランドとの和平」について極めて率直にこう述べている。
前者については、書簡と使節を通じて「国王と和解するように」と要求した。
その一方で、後者と和平を結ぶ唯一の方法は、彼らが「祖国イングランドへ帰還する」ことであると。[18]
1.4 休戦協定(1)15日後にパリを明け渡す約束
ジャンヌをひどく不快にさせたこの休戦協定がいつ締結されたのか、正確な時期はわからない。7月30日か31日にソワソンかシャトー=ティエリで、あるいは8月2日から5日の間にプロヴァンで結ばれたのか。[19]
どうやら休戦は15日間続く予定で、その期間が終了したら、公爵はフランス王にパリを明け渡すと約束していたようだ。
乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)が不信感を抱いたのも当然である。
摂政が彼の前から退く(イングランド軍が迫っていると聞いていたが当面の危機が去ったため)と、シャルル王は本拠地ポワトゥーへの撤退計画を急いだ。
王はラ・モット=ナンジから、ちょうど降伏したばかりのブレ=シュル=セーヌへ宿営総監(Quartermasters)を派遣した。
⚠️宿営総監(Quartermaster):訳語に迷っている。陸軍用語としては食料や物資などの兵站輸送を担当する輜重兵の将官のこと。海軍・水軍用語としては帆船の操舵手および船長に次ぐ副官のこと。
川沿いの行軍であることを踏まえると、兵站と宿営を差配する「宿営(設営)担当」兼「先遣隊長」といったところか。
モントローの上流、プロヴァンから南へ10マイルに位置するこの町は、川に橋がかかっており、国王軍は8月5日または6日朝にこの橋を通過する予定だった。
しかし、夜にイングランド軍が現れて、補給将官を倒して橋を占拠した。
退路を断たれた国王軍は、進軍計画を諦めて引き返さざるを得なかった。[20]
*
戦わないまま飢えに蝕まれつつあったこの軍隊の中には、ジャンヌが親しみを込めて「王家の血筋」と呼んだ者たちが率いる熱狂的な一派が存在した。[21]
アランソン公、ブルボン公、ヴァンドーム伯、そして「りんご荷の戦い」から戻ったばかりのバル公(ルネ・ダンジュー)だ。[22]
⚠️りんご荷の戦い:上巻・第四章の「4.1 老ロレーヌ公と娘婿ルネ・ダンジュー」を参照。
ヨランド夫人(ヨランド・ダラゴン)のこの若い息子は、絵を描いたり道徳的な韻文詩を執筆する前は、戦士だった。バル公でありロレーヌ公の後継者でもあったため、これまではイングランド・ブルゴーニュ軍に加わることを余儀なくされていた。
シャルル王の義弟である彼は、王の勝利を当然喜ばないわけがなかった。
なぜなら、その勝利がなければ、ルネは姉である王妃の側に立つことができなかったからであり、そのことを非常に残念に思っていたからである。[23]
ジャンヌは彼を知っていた。少し前、ロレーヌ公に面会した時にルネ公もフランスへ同行させるよう頼んでいた。[24]
ルネはみずからの意志でジャンヌに従い、パリへ向かった者の一人だったと言われている。
その他に、ラヴァル夫人の二人の息子、セル=アン=ベリーでジャンヌがワインを差し出して「すぐにパリで飲ませてあげる」と約束した兄のギー・ド・ラヴァルと、後にロエアック元帥となる弟アンドレがいた。[25]
これが「ラ・ピュセルの軍団」だった。ほとんど子供と変わらない若者たちの集団が、自分たちよりもさらに若く、より純真で善良な少女の旗(バナー)と並んで自分たちの旗を掲げたのである。
⚠️補足:著者アナトール・フランスは「ほとんど子供と変わらない若者たちの集団」と述べているが、ブルボン公(当時はまだクレルモン伯)はシャルル七世よりも2歳年上。
つまり、国王も彼らとそれほど変わらない年齢だが、過酷な生い立ちゆえか実年齢よりも成熟かつ慎重な性格で、ジャンヌに対して優しさを見せつつも熱狂する様子はなく、いつも冷静に対応している印象。
(ポワトゥーへ戻る)退路が断たれたと知ると、これらの若き王子たちは大いに満足し、喜んだと言われている。[26] これは勇敢さと熱意の表れだ。
しかし、王室の評議会が和平を望んで交渉しているにもかかわらず騎士団は戦うことを望み、そして騎士団が「敵による戦争の長期化」と「国王軍がゴドン(イングランドに対する蔑称)に追い詰められている」ことを喜んでいる状況は、奇妙な立場であり、誤った見方だった。
残念ながら、この好戦的な派閥には有能な支持者がいなかった。好機は失われ、摂政(ベッドフォード公)は軍勢を集め、差し迫った危機に対処する時間を与えてしまった。[27]
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