教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|下巻・第十五章 ラ・ピュセルの死後/羊飼いの終焉/アルモワーズ夫人
【アナトール・フランス『ジャンヌ・ダルクの生涯』完訳プロジェクト】1908年発行の名著を、膨大な独自注釈とともに現代日本語で蘇らせる個人翻訳プロジェクトです。継続的な活動維持と出版支援のため、一部を有料公開としています。
総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか
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【この章のポイント】
- ジャンヌ処刑後の混乱とイングランドの免責状
- 「ジャンヌの後継者」たちの末路
- 偽ジャンヌ「アルモワーズ夫人」の出現と真相
15.1 火刑の後始末:フランス復権に備えた免責状
b 夕方、火刑が終わると、処刑人はいつもの習わし通り、泣き言を伝えて物乞いをするために托鉢修道士たちがいる修道院へ行った。
その哀れな被造物(creature)はジャンヌを死なせるのが非常に難しかったと不平を漏らした。
⚠️哀れな被造物(créature):化け物じみた生物のこと。神の被造物に対する悪魔の被造物。言いなりになる者、権力の手先というニュアンスもある。
後世に作られた伝説によると、処刑人は修道士たちに「聖人を火刑に処したことで天罰が下るのではないかと恐れている」と語ったという。[985]
もし実際に副審問官の館でそのように話していたなら、彼はただちに最下層の地下牢に投げ込まれ、そこで異端審問を待つ羽目になっただろう。そして、その裁判はおそらく、彼が聖人と呼んだ彼女に与えたのと同じく、死を宣告される結果になっただろう。
そもそも、善良な副審問官ジャン・ル・メートルとボーヴェ司教によって断罪されたその女が「悪女ではなかった」などと、一体何が彼にそう考えさせるに至ったのか?
実のところ、処刑人はこれらの修道士たちの前で、魔女を処刑した際に難儀したことと、自分の努力と手柄を主張したかったのであり、ようするに仕事の見返りに一杯のワインを要求しに来たのである。
修道士たちの一人、たまたま托鉢修道士として居合わせたピエール・ボスキエは、自分の立場を忘れて「乙女に下した宣告は間違っていた」と発言した。
この言葉を聞いたのは少数だったにもかかわらず、大審問官に伝えられた。
この件で申し開きをするよう召喚され、ピエール・ボスキエは非常に恐縮した態度で「自分の言葉は全面的に間違っており、異端に染まっていた」と述べ、「ワインをたらふく飲んで泥酔していたときに口走ったにすぎない」と弁明した。
彼はひざまずき、両手を合わせ、聖母教会、裁判官、そして最も畏敬すべき諸侯に赦しを請うた。
彼の後悔の念を汲み、また彼の聖職者としての身分と、酩酊状態で発言した状況を考慮して、ボーヴェ司教と副審問官は寛大な措置を示した。
1431年8月8日に宣告された判決で、彼らはピエール・ボスキエを托鉢修道士の家(修道院)に幽閉し、復活祭までパンと水のみで生活させる刑に処した。[986]
⚠️復活祭(Easter):磔刑にされて死んだイエス・キリストが三日目に復活したことを記念する祝日。「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に祝うため、年によって日付が変わるがだいたい3月末〜5月初め。
*
6月12日、ジャンヌを裁いた裁判官と陪審員たちは、イングランド大評議会から免責状を受け取った。
これらの書状の目的は何だったのか?
フランス陣営から起訴される事態に備えたのか?
しかし、もしそうなった場合、免責状は彼らにとって益よりも害をもたらしただろう。[987]
イングランド大法官は、皇帝(神聖ローマ皇帝)と国王をはじめ、キリスト教世界の君主たちにはラテン語で、フランスの高位聖職者、公爵、伯爵、領主たち、そしてすべての都市にフランス語で手紙を送った。[988]
その中で彼は、「ヘンリー王とその顧問たちは乙女(ラ・ピュセル)に深い憐れみを抱いていた」こと、そして「もし彼らが彼女の死を招いたのだとすれば、それは信仰への熱意とキリスト教徒たちへの配慮によるものである」と伝えた。[989]
パリ大学も同様の趣旨で、教皇、皇帝、そして枢機卿団に手紙を送った。[990]
15.2 修道士リシャールと聖女隊の崩壊
7月4日、サンマルタン・ル・ブイヤンの祝日に、ジャコバン修道院の小修道院長(Prior)であり異端審問官だったジャン・グラヴラン師が、サンマルタン・デ・シャンで説教を行った。
説教の中でジャンヌの行状について語り、彼女が過ちと欠点のために、いかにして世俗の裁判官に引き渡され、生きたまま火刑に処されたかを語った。そしてこう付け加えた。
「4人いたが、そのうち3人が捕らえられた。すなわち、この乙女(ラ・ピュセル)、ピエロンヌと彼女の仲間である。残る1人、カトリーヌ・ド・ラ・ロシェルは今もアルマニャック派にとどまっている。パリのイノサン墓地やその他の場所で説教をした際、あれほど多くの群衆を魅了したフランシスコ会のリシャール修道士が、これらの女たちを指導していた。彼こそが彼女たちの霊的な父だった」[991]
ピエロンヌはパリで火刑に処され、彼女の仲間は教会の牢獄で嘆きのパンを食べ苦難の水を飲み、ジャンヌはルーアンで火刑に処されたことで、王室のベギン会修道女の一団はほぼ壊滅状態になった。
⚠️ベギン会(béguine):中世ヨーロッパで生まれた半聖半俗の姉妹団体。修道会とは異なり、正確にいえば修道女ではない。望まぬ妊娠をした人や行き場のない独身女性など、ある意味、教会が取りこぼした弱者の駆け込み寺のような互助組織・共同体。フランス革命を契機に衰退したが、かつてフランス王国だったオランダやベルギーに残っている。
国王のもとには、パリの役人の手から逃れたラ・ロシェルの聖女だけが残っていたが、彼女の無分別なおしゃべりは、彼女を厄介な存在にしていた。[992]
自称・聖女たちが信用を失っている間に、善良なリシャール修道士自身もまた不遇な時を迎えていた。
ポワティエ教区の代理司教と異端審問官は、彼に説教を禁じた。
あれほど多くのキリスト教徒を改心させたこの偉大な雄弁家は、男たちの賭博台やサイコロ、女たちの華美なファッション、着飾ったマンドレイク(マンドラゴラ)に対して雷を落とす(激しく非難する)ことができなくなった。それどころか、反キリストの到来を告げることも、差し迫った世界の終末とその先触れとなる恐ろしい試練に備えて、魂を準備させることもできなくなった。
修道士リシャールは、ポワティエのフランシスコ会修道院に拘留するよう命じられた。
彼がこの命令に素直に従わなかったことは間違いない。なぜなら、1431年3月23日の金曜日、教区司教と異端審問官はポワティエ高等法院に「判決を執行するための支援」を求め、高等法院がそれを拒まなかった記録が確認できるからだ。
なぜ聖なる教会は、罪深い魂を動かす力を授かった説教者に対して、これほど厳しい態度を取ったのか?
少なくとも、その理由は推測できる。しばらく前から、イングランドとブルゴーニュの聖職者たちは、修道士リシャールを背教と魔術の罪で告発していた。
今や彼は、教会全般から、とりわけガリア教会の統一とキリスト教世界の輝ける太陽であるパリ大学の権威ゆえに、イングランド・ブルゴーニュ派の博士たちから誤りや異端の疑いをかけられ、その上、シャルル王に忠誠を誓う聖職者たちからも疑念の眼差しを向けられるようになった。
特に、カトリック信仰に関わる問題で、パリ大学が不利な判決を下し、イングランド派を支持した場合に、この傾向が顕著だった。
ピエロンヌの断罪とジャンヌの裁判を経て、ポワティエの聖職者たちがリシャールに偏見を抱くようになった可能性は極めて高い。
終末思想を説くことに固執したこの善良な修道士は、黒魔術に関与しているという強い嫌疑をかけられた。そのため、彼は自分に迫りくる運命を悟って逃亡し、その後の消息は分からなくなった。[993]
15.3 羊飼いギヨームとヘンリー六世の戴冠式(1)ジャンヌの後継者
しかし、シャルル王の顧問たちは敬虔な者(予言者や幻視者)を軍隊に起用し続けた。
修道士リシャールとその伝道者たち(聖女隊)が姿を消した頃は、若い羊飼いを利用していた。フランス王国宰相(大法官)でもあったランス大司教ルニョー・ド・シャルトルが「ジャンヌの奇跡の後継者」だと宣言した、あの羊飼いギヨームのことだ。
ギヨームが力を発揮することを期待された当時は、次のような状況だった。
戦争は続いていた。ジャンヌの死から20日後、イングランド軍は大軍を率いて、ルーヴィエの町を奪還すべく進軍した。
⚠️ルーヴィエ(Louviers):ジャンヌが火刑に処されたルーアンの南20キロにある町。
彼らがそれまで進軍を先延ばししていたのは、一部の者が述べているように、ジャンヌが生きている限り何をやっても成功しないと諦めていたからではない。包囲戦の軍資金と攻城兵器を調達する時間が必要だったからだ。[994]
同年7月と8月、サンリスとボーヴェでは、ランス大司教(ルニョー・ド・シャルトル)とブサック元帥がフランス軍を支えていた。
ランス大司教が精力的にフランス軍を支えていたことは確かである。なぜなら彼は(フランス軍を支えると)同時に、彼にとって非常に大切な聖職禄を守っていたからだ。[995]
かつて乙女が奪還したそれらを、彼は今、少年に防衛させようとしていた。
この目的のために、大司教はロゼール山地出身の小さな羊飼いギヨームを起用した。彼はアッシジの聖フランチェスコやシエナの聖カタリナのように聖痕があった。
*
フランス軍の一団が、イングランド摂政ベッドフォード公をマントで奇襲し、捕虜にする寸前まで追い詰めた。
⚠️マント(Mantes):イル・ド・フランスとノルマンディーの境界にある重要な水路で、商業的・軍事的な要衝。
ルーヴィエを包囲していたイングランド軍に警報が伝わり、2〜3個中隊の兵士が派遣された。彼らがマントに急行すると、摂政はすでに逃亡に成功してパリに到着したことを知った。
その後、グルネーやその他のイングランド守備隊からの援軍が加わり、ウォリック伯、アランデル伯、ソールズベリー伯、サフォーク伯、それからタルボット卿、トマス・キリエル卿が指揮する約2000人にのぼるイングランド軍は、大胆にもボーヴェへの進軍を開始した。
フランス軍は彼らの接近を知ると、夜明けに町を出発し、敵軍を迎え撃つためにサヴィニー方面へ進軍した。
シャルル王の軍勢は800人から1000人で構成され、ブサック元帥、ラ・イル隊長、ザントライユ隊長らが指揮を執っていた。[996]
彼らが神から遣わされたと信じていた羊飼いギヨームは、両手と両足、左の脇腹にある奇跡の傷(聖痕)を見せつけながら、馬に横乗りで、軍隊の先頭に立っていた。[997]
町から1リーグ(2.5マイル/4キロ)地点まで来たとき、まったく予想していなかった矢の雨が降り注いだ。
斥候からフランス軍の接近を知らされたイングランド軍は、道の窪みで待ち伏せしていた。彼らは前方と後方から挟み撃ちで接近し、激しい攻撃を仕掛けた。
両軍とも勇敢に戦った。相当数の兵士が戦死したが、これは異例のことだ。当時の戦闘では逃亡兵以外が殺されることは稀だったからだ。
包囲されていると感じたフランス軍はパニックに陥り、自滅を招いた。彼らの大部分は、ブサック元帥やラ・イル隊長と共にボーヴェの町へ逃げ帰った。
だが、ザントライユ隊長と羊飼いギヨームは敵軍の手中に落ち、イングランド軍は勝利の凱旋をしながらルーアンに帰還した。[998]
15.4 羊飼いギヨームとヘンリー六世の戴冠式(2)祝賀行事と見世物の処刑
ザントライユ隊長は、慣例通りに身代金を払って解放されると確信していた。
しかし、小さな羊飼いはそのような運命を望むことはできなかった。羊飼いギヨームは異端と魔術の疑いをかけられた。キリスト教徒を欺き、偶像崇拝的な崇敬を受け入れていたからだ。
彼がその身に受けていた「救世主の受難のしるし(聖痕)」は何の役にも立たなかった。それどころか、フランス陣営が神の刻印と考えた傷は、イングランド陣営には悪魔の刻印のように映った。
ギヨームは、ジャンヌと同じくボーヴェ教区で捕らわれた。
ジャンヌを裁く権利を主張したこの町の司教ピエール・コーションは、ギヨームについても同様の権利を主張した。
羊飼いギヨームは「乙女」には拒否された待遇を与えられた。つまり、教会の牢獄に入れられたのである。[999]
ギヨームはジャンヌほど監視が難しくなく、重要度も低いと思われたようだ。
しかし、イングランド人は異端審問の煩雑な手続きについて最近知ったばかりで、それがどれほど長くかかり、どれほど形式張っているかを学んでいた。その上、この羊飼いが異端の罪で有罪判決を受けても、自分たちに何の利益があるのか理解していなかった。
フランス人が、ジャンヌと同じようにギヨームに戦勝祈願を託していたとしても[1000]、その希望は長くは続かなかっただろう。
羊飼いの少年が悪魔から遣わされたことを証明して、アルマニャック派に恥をかかせたところで、労力に見合う価値がないと見なされた。
羊飼いの少年はルーアンへ送られ、そこからパリへ連れて行かれた。[1001]
*
羊飼いギヨームが虜囚となって4カ月後、9歳になるヘンリー六世が、フランスとイングランドの二つの王冠を戴くために、パリのノートルダム大聖堂で戴冠式を行うべくやって来た。
12月16日の日曜日、彼は盛大な儀式と大きな歓喜のうちにパリ市内に入城した。
行列の道沿い、ポンソー・サンドニ通りには、3人のセイレーン像で装飾した噴水が作られた。セイレーンの中央からは背の高いユリの茎が伸び、そのつぼみと花からワインとミルクが湧き出ていた。
人々はその噴水を飲もうと群がり、その周りでは野蛮人に扮した男たちがゲームや模擬戦で人々を楽しませていた。
サンドニ門からマレ地区のサンポール邸まで、幼い国王は、金の百合の紋章が刺繍された大きな紺碧の天蓋の下を騎行した。
紫色の衣装を着てフードをかぶった4人の市会議員(参事会員)に先導され、それから織物商、食料品商、両替商、金細工師、靴下商のギルド組合員が続いた。
彼の前を伝令(前衛)25人とラッパ奏者25人が進み、後ろには華麗な甲冑を身につけて大きな盾を持った美男子9人と美女9人が続いた。彼らは九勇士(preux)と九女傑(preuses)を象徴していた。さらに、多数の騎士と従騎士も続いた。
⚠️勇者と女傑(preux/preuses):中世騎士道文学に登場する武勇に優れた騎士、勇士のこと。
この華やかな行列の中に、哀れな羊飼いギヨームの姿があった。彼はもはや受難の傷跡を見せつけるために両腕を広げることはなかった。厳重に縛られていたからである。[1002]
儀式が終わると牢獄に連れ戻され、その後、彼は袋に縫い合わされてセーヌ川に投げ込まれた。[1003] フランス陣営でさえ「ギヨームは単なる愚か者で、彼の使命は神からのものではない」と認めていた。[1004]
15.5 リッシュモン大元帥の復帰
1433年、リッシュモン大元帥はシチリア女王(ヨランド・ダラゴン)の協力を得て、ラ・トレモイユの捕縛と暗殺を企てた。シャルル王のために顧問官を任命し、その後殺害するのが当時の貴族たちのやり方だった。
しかし、ラ・トレモイユに死をもたらすはずだった剣は、彼の肥満体に致命傷を与えることができなかった。ラ・トレモイユの生命は助かったが、権勢は死んだ。
シャルル王は、かつてラ・トレモイユの所業を容認したのと同様に、リッシュモンを容認した。[1005]
ラ・トレモイユは自分自身の繁栄に執着し、王国の安寧に無関心だったという評判を後世に残した。おそらく彼の最大の過ちは、戦争と略奪の時代に統治していたことにある。当時は敵も味方も同様に王国を荒らしていた。
彼はジャンヌを破滅させたとして非難され、彼女に嫉妬していたからだと言われているが、この話はラ・トレモイユと不仲だったアランソン家から生じたものだ。[1006]
それどころか、宰相(ランス大司教)に次いで、ラ・トレモイユはジャンヌをもっとも積極的に起用した人物だったと認めなければならない。仮にジャンヌが彼の計画の邪魔になったとしても、ラ・トレモイユがジャンヌを破滅させるためにイングランド軍に引き渡した証拠は何もない。
ジャンヌはみずからの熱意に呑み込まれて身を滅ぼし、焼き尽くされたのである。
正しかろうと間違っていようと、侍従長ラ・トレモイユは悪人とみなされた。
そして、王の寵愛を受ける後継者となったリッシュモン卿は、貪欲で、冷酷で、凶暴で、信じられないほど愚かで、無愛想で、悪意を抱き、いつも疲れ果てていて、いつも不満を抱いていたが、この交代劇は損失にはならなかったようだ。
大元帥(リッシュモン)は、ブルゴーニュ公がフランス王と和解しようとしている幸運な時期に復権したのである。
あるカルトゥジオ会修道士の言葉を借りれば、「モントロー橋でジャン公(ブルゴーニュ無怖公)の頭に開けられた穴から王国に侵入したイングランド人は、フィリップ公の手によって、ようやく王国の支配権を維持することができた」とある。
(フランスに侵入した)イングランド人はわずかな人数だった。
それゆえに、もし巨人がその手を引けば、一吹きの風で吹き飛ばされるだろう。
イングランド摂政ベッドフォード公は、ヘンリー六世誕生にまつわる占星術の予言が実現するのを眺めながら、悲しみと怒りに駆られて死んだ。
「ウインザー(※原文Exeterと書かれているが誤記)は
モンマスが勝ち得たものを失うだろう」[1007]
1436年4月13日、フランス大元帥リッシュモン伯爵がパリに入城した。
ブルゴーニュ派の聖職者とカボシャン派の博士たちの乳母であるパリ大学自身が、和平の仲介役を務めた。[1008]
⚠️ウインザー(Windsor)とモンマス(Monmouth):前者がヘンリー六世の誕生地で、後者はヘンリー五世の誕生地。ヘンリー六世の誕生にまつわる占星術と予言のいきさつは、上巻・第十二章『12.8 オルレアン到着2日目(2)』参照。
⚠️訳者のこぼれ話:著者アナトール・フランスは、リッシュモンについて「ブルゴーニュ公がフランス王と和解しようとしている幸運な時期に復権した(たまたま運が良かった)」と低評価を下しているが、少しフォローしておきたい。
宮廷から遠ざかっている間も、妻(ブルゴーニュ公の姉)を通じてシャルル七世とブルゴーニュ公の和解を働きかけ、また、英仏間で巧妙に立ち回る実兄のブルターニュ公をフランス陣営に引き止めるなど、決して軽くない働きをしている。
フランス大元帥に就任して以降は、どれほど冷遇されてもシャルル七世の敵方に与することは一度もなく、やや強引で押し付けがましいとはいえ忠義の人であることは間違いない。
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