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ここでの考察は、もっとも厳格な規則に従わなければ確立できないものであって、体系的な正確さを求められる… 連載 超訳プロレゴメナ 74 本編10

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序説(承前)

 しかしぼくには、まだ懸念が残っている。
 純粋理性に関する考察(ぼくの『純粋理性批判』)でヒュームの問題へ言及することが、問題自体が最初に提案されたときと同じようなことが起こるのでないかと、心配なのだ。
 『純粋理性批判』の真意を理解しない人は多い。それどころか、かなり誤解されている。だから、この問題に対して誤った評価がなされる可能性は高い。多くの人たちはこの本を読む気になっても、じっくり考えずに流し読みするだろう。だから理解はできないままに終わるはずだ。
 たしかにこの作品は、一見は無味乾燥であり、明解ともいえない、さらにあらゆる一般的な概念に相反もしている、さらに長文である。だれもこんなものを苦労して読む気にはならないだろう。
 だがぼくは、はっきりと言わせてもらう。人間にとって貴重で不可欠な認識の存在そのものが危機に瀕している現状で、哲学者たちから苦情を聞くことになったのは心外でもあった。彼らは、ぼくが書くものには、通俗、娯楽、快適が欠如していると言っている。たしかにその通りだろう。
 だがぼくのここでの考察は、もっとも厳格な規則に従わなければ確立できないものであって、体系的な正確さを求められるものなのだ。
 時間を経て、通俗的な展開も可能になって、付加されてくる可能性もあり得るが、通俗から始まることは、どこの世界にもありえないのだ。しかし考察が広い範囲を対象にしているために、部分的には主要点が拡散されて見渡せないことも事実である。
 この点に関する苦情は正当なものとして、ぼくは必ず受け取っていくだろう。このプロレゴメナでは、それを削除していくつもりでいる。

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