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超訳 純粋理性批判 3 超越論的原理論編 3   空間がぼくたちの内部にあるものとして見ることができないのと同じように、時間も外部から見ることはできない 

本文中の [nnn] 表記は、原書第2版のページ番号を示している。

超越論的原理論

第1部 第1節 空間について

第2項 概念の形而上学的な究明

[037]
 ぼくたちは、(心の特性として)外部を認識する感覚(外官)を用いることで、《もの》を外部にある対象として認識(想像)している。さらに同様に《もの》は、空間全体に存在しているものとして認識(想像)している。
 こうして《もの》の形、大きさ、そして《もの》相互の関係を決定できる。だが、それはぼくたちの心が決定しているわけではない。感覚は自分自身やその状態を認識する手段だが、心そのものが対象としての《もの》を直観してるんじゃない。
 それにも関わらず、その内部状態の直観が唯一可能な特定の形式であり、その結果、内部の決定に属するすべてのものは時間の関係で表現されるのだ。それなら空間や時間とは何だろうか? それって実在する存在なんだろうか? それらは確かに物事の決定や関係に過ぎないが、直観的でなくてもそれ自体に当てはまるものだろうか、それとも直観の形式、つまりぼくたちの心の主観的な性質だけに頑固に考え続ける必要なんてあるのだろうか。
 これがなければここには何も属することがないのか? これを理解してもらうために、まず空間の概念を明らかにしょう。明快(expositio)という言葉で、ぼくが理解しているものは、対象の概念に属するものの明確な(詳細ではないが)提示することだ。しかし、その議論に、概念がア・プリオリ(先験的)に与えられたものとして提示される内容が含まれている場合、その議論は形而上学的といえる。

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