超訳 純粋理性批判 97 序説編 22 まず「ぼくは存在する」という表象には、ぼくの存在としての知性的な意識が含まれていることが前提になっている… ぼくは自分を知るためにも、その存在考えなければ、ならないってこと… つまり、ぼく自身が時間の中に存在していることを確信しているように、ぼくの外側にもぼくの感性に関係したあるものが存在していることを…

*第二版に関する注記(承前)
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ぼくが持っている多く対象にたいして、ぼくが判断や理解を、もし求めるとしたら、まずそこに特定の視点が必要になることに気づいていなければならない。
まず「ぼくは存在する」という表象には、ぼくの存在としての知性的な意識が含まれていることが前提になっている。この知性的な意識を、知性的な直観が持っているぼくの存在に関係した決定と結びつけることができたとする。そのときの知性的な直観は、ぼくの外側にあるものへ関係する意識が属していることはない。しかし知性的意識には先行する存在だが、ぼくの現存在として内的な直観は感性的なもので、時間的な条件にむすびついている。この決定は内的な経験自身は、ぼくの中の持続的なものに依存していることになる。この持続的なものは、ただぼくの外側にあるものの中に存在しているものだ。だから、それと対立する視点に立って、ぼくは自分を知るためにも、その存在を考えなければ、ならないってことだ。
つまり、ぼく自身が時間の中に存在していることを確信しているように、ぼくの外側にもぼくの感性に関係したあるものが存在していることを、ぼくは確信している。しかし、どの与えられた直観が実際にぼくの外側の対象に対応して外側の感覚に属し、想像ではなく外側の感覚に帰属しているかは、経験全般(内的経験でさえも)を想像力とは区別した規則に基づいて、個々の事例ごとに決定しなければならない。そして、外側の経験が、ほんとうに存在するという基本的な考えは、いつもこの区別の根底にあるものなのだ。さらに次の点も付け加えることができる。存在する持続的なものの概念は、持続的な概念そのものとは異なっている。なぜなら、持続的な概念は、ぼくたち多くの概念、さらには物質の概念と同様に、非常に変化しやすく、変動しやすいものだからだ。そうではありながらも、持続的な概念が、永続的なものを指し示しているのだ。
こうして持続的な概念は、ぼくが持っている他の多くのとは区別されるものであり、ぼくの概念の外側にあるものに限定される。その存在は、必然的にぼく自身の存在の決定関係するものであって、ただ一つの経験をかたち創るものとなる。もし、この経験が、(部分的にでも)外側のものでなかったとしたら、内側でも生まれることもなかったに違いない。ここから先で、それが「どういうように」生まれたかは、ぼくたちには説明できない。なぜなら、ぼくたちがいつもは時間の中で存在し続けるものにたいして、その生成については考えてはいないのと同じことだ。そして、時間の中でそれが存在し続けながら変化するもの同時に存在することから、変化という概念が生まれてきている。だが、これについてもぼくたちは説明できる場には立ってはいない。
