超訳 純粋理性批判 96 序説編 21 観念論は形而上学の本質的な目的に関しては、まったく無害(実際違うが)だと思われるかもしれない。ぼくたちの外にあるものの存在を、じっさいのところはたんに信仰によって受け入れなければならない。もしだれかがそれを疑っても満足できる証明を示すことはできない…

[b39]
*第二版に関する注記
この第二版で量が増えたのは、第一版と比較して、ほんらいの意味で、ただ証明の方法だけだと言っていい。とくにこれに該当するのは、心理的な観念論にたいする新たな論駁と、外的直観の客観的実在に関係した厳密な(ぼくが信じる限りでの唯一可能な)証明(273頁)のために追加した個所だけだ。
※超訳者付記: 上記の273頁は、275頁の誤植と言われている。
観念論は形而上学の本質的な目的に関しては、まったく無害(実際違うが)だと思われるかもしれない。ぼくたちの外にあるもの(ぼくたちの認識のすべてがそこから、さらには内的感覚さえもそこから獲得しているもの)の存在を、じっさいのところはたんに信仰によって受け入れなければならない。もしだれかがそれを疑っても満足できる証明を示すことはできない。これは哲学と一般的な人間の理性にとっては、一つのスキャンダルでしかない。
この証明の一部に、不明確な個所があった。そこで下記のような修正を施した。
この持続的なものは、他方では、ぼくの中の直観じゃない。ぼくの現存在を決定する原因、その要因となるのは表象だ。つまり、ぼくの中で見つけられるものは、表象なのだ。またそれが表象に限られて存在するには、それ自体(対象としてのオブジェクト)が表象とは別に持続していることが必要だ。この持続的ってこととの関連で表象の変化、また表象がそこで変化することで、時間との対応で。ぼくの現存在が決定されるのは、間違いない。さらにこれは、ぼくの存在の経験的な認識そのものとなる。だから、外部とぼくの内部の感覚を切断することなく結びつけるのは、新らしい発見ではなく経験だ。また新らしい想像でもなく感性だ。外的なものにたいする感性はそれ自体で、ぼくの外にある現存在のある何かに対する直観の関係であって、想像力とは区別されるものなんだ。
以上は証明としての一つの表現だが、ぼくたちは時間の中でのぼくたち自身の現存在を、内的な経験から意識していることも忘れてならないだろう。ぼくは、内的な経験を持つことで、時間の中のぼくの(時間の中でのぼくの存在が決定される)存在を意識している。これは、たんにぼくの表象をぼくが意識するってこと以上のことだ。それは、ぼくの存在と結びついていながらも ぼくの外にある何かある存在との関係だけで決定されるものと言っていいだろう。
そしてそれは、ぼくが存在していることから取得できる経験的な意識と同一なものなのだ。時間の中でのぼくの存在が意識するものは、ぼく自身の外にある何かとの関係の意識と同じように結びついている。だから、外側とぼくの内側の感覚(内官)を必然として結びつけるのは、思いつきなんかでなく経験であり、想像ではなく感覚(内官)なんだ。なぜなら、外側の感覚はそれ自体で、ぼく自身の外にある何か実在するものへの直観の関係であり、想像力とは区別されるものだからだ。その現実性は、内なる経験そのものとの必然的な結びつきであって、可能性の条件だけに基づいているからなのだ。現実に、ここで起こっているのは、そういうことだ。
