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空間と時間は、多くの人間の普遍的な意識として存在し、それが人間同士の思考のための尺度ともなりえると、そういっているにすぎない… 連載 超訳プロレゴメナ 257 プロローグ編40

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 空間と時間は人間の認識があってこそ存在するもの、それが前回までで、かなり明らかになってきている。
 
 また途中で、第二版序文を扱い、「コペルニクス的転回」について、初歩的なディスカッションをした。これが読書会参加者にとって、空間と時間についての考え方を、カントの視点で観ることも、かなり自然に扱うことができるようになっていることが想定できる。
 
 ここで、空間と時間は人間の認識があって存在すると言っているが、それはけっして人間の観念が、空間や時間を創り出すって言うような意味ではない。空間と時間は、多くの人間の普遍的な意識として存在し、それが人間同士の思考のための尺度ともなりえると、そういっているにすぎないのだ。
 その共通の意識となる尺度があったからこそ、カント以前のデカルトが、座標軸を考え出し、解析幾何学の基礎を築くことが可能だったとも言えるのだ。
 
 だから、ここには人間の共通軸はあっても観念論は存在しない。しかしカントに時代から今日までも、オブジェクトからの表象を明確に捉える姿勢がない人は多い。だから、胡散臭い新興宗教も生まれて、人間を蝕んでいく状況が絶えることはない。
 この状況、精神が蝕まれた状況は、すべての人間が、自身と周りを冷静に観察すようにならなければ、けっして絶えることがないものなのだろう。
 
 第13節の補足3を読んでいると、カントもここまでに書いたような考えを抱いていたのでないかとさえ思えてくる。

 こうしてぼくたちは、下記を他愛ない異議として簡単に退(しりぞ)けられる。
「空間と時間の観念性を認めれば、世界全体が単なる仮称に変えられる」
 こうした異議が生まれるは、感性を混乱した表象と観るだけに終わらせて、表象を明確に捉えることなく、哲学的洞察を進めて行った結果と言える。これでは哲学的洞察そのものを腐らせてしまっただけだった。

第258回 本編 43

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