感覚は、惑星の進行に似て速度を変えてその動きをぼくたちに示してくれる。あるときは進歩するが、ときには後退することも示してくれる。これには虚偽でも真実でもない。なぜなら、ぼくたちがこれを単なる現象と判断している限り、ぼくたちには惑星の運動と同様に、感覚の客観的な性質を判断できないからだ 連載 超訳プロレゴメナ 258 本編 43
第13節 補足3
こうしてぼくたちは、下記を他愛ない異議として簡単に退けられる。
「空間と時間の観念性を認めれば、世界全体が単なる仮称に変えられる」
こうした異議が生まれるは、感性を混乱した表象と観るだけに終わらせて、表象を明確に捉えることなく、哲学的洞察を進めて行った結果と言える。これでは哲学的洞察そのものを腐らせてしまっただけだった。
だがこれに対して、ぼくは次に視点を置いていた。感性の本質には明瞭とか不明瞭とういう論理的な区別にはなく、認識そのものの発生の起源に感する区別にあるはずだ。これにしたがって、ぼくは下記ように証明する。
感性(感覚が知るということ)は物事をありのまま取得するのではなく、それがぼくたちの感性に影響を与える様式だけを表象(現象)として取得しいるに過ぎない。その結果として、感性からは物自体ではなく現象が与えれて、理解力おける理解に反映されることになる。
この重要な考え方を提示したことで、ぼくが「感覚の世界のすべてを単なる幻想に変えた」とうい誤解が生まれた。こうなったのは、許されない意図的な誤解が源にあるのはないか。
現象が与えられたとき、それに対する判断の方法をどうするかは、ぼくたちが自由に取り扱うことができる。
現象は感覚に依存したものだが、その判断は理解力の仕事(理解)になる。そうなると問題は、対象を決めるものが真実があるかどうかだけだ。真実が現実であっても夢であっても変わりはない。現実と夢の違いは、対象に表現によって確認されるのではなく(どちらの場合も同じだから)、処々の表象間の連結がいかに矛盾なく実現できるかにある。つまり物の表象が一つの経験の中で矛盾することなく存在できるかで決まることになる。 ぼくたちの認識が仮象を真実とみなすとき、ある対象がぼくたちに与える直観によって、対象の存在の概念が考えられる。存在そのものが理解できないとしてもないとしても、概念はそれに先行して確立している。
感覚は、惑星の進行に似て速度を変えてその動きをぼくたちに示してくれる。あるときは進歩するが、ときには後退することも示してくれる。これには虚偽でも真実でもない。なぜなら、ぼくたちがこれを単なる現象と判断している限り、ぼくたちには惑星の運動と同様に、感覚の客観的な性質を判断できないからだ。
だが理解力は警戒しなければ、誤った判断を犯すこともある。それは主観的な表象様式が客観的であるように見誤る場合であって、その場合は、進歩を後退と誤認することもあり得るのだ。
だがこの問題を仮象に対する感覚に原因があると観てはならない。現象を対象にして判断を決定するのは理解力だからである。
これらのことから、ぼくたちには意義あるものを必ず得ることになる。たとえぼくたちが自分の表象の要因を、まったく考えていなかったとしても、感覚の結果として得たすべての認識の規則に従って、(それに含まれるものが何であれ)を空間的にも時間的にも結び付けられて、ぼくたちには仮想か真理が生まれる。どちらにしてもそれは理解力という理解の表現の問題であって、表象の起源の問題ではない。
同様に、ぼくの感覚のすべての表象をその形、空間、時間とともに考えるならば、それは単なる現れであり、空間と時間は感性の単なる形式であり、そこに誤謬が起こる原因などはない。だからぼくが可能性のある経験のみを参照してこれらの表現を使用する場合、ぼくの中には、それらを誤った方向に導いたり幻想を引き起こしたりする可能性があるとも考えてはいない。なぜなら、それらは経験上の真実の規則に従って正しく一貫性を保つことができるからなのだ。
このように、幾何学のすべての命題は、ぼくが空間を単なる感性の形式として考えるか、あるいは物自体に結びつく何かとして考えるかにかかわらず、空間だけでなく感覚のすべての対象、したがってすべての可能な経験にも当てはまる。
しかし、空間を感性の形式として見る場合にだけは、ぼくは外的直観のすべての対象に関するこれらの命題をどのようにしてア・プリオリに知ることができるのかを理解できることになる。
そうでないとしたら、あらゆる可能な経験に対して、ぼくが旧来の考え方の離れずにいて、なにもなかったようになるだろう。
