人間の感性が、多くの経験を素に育まれることは言うまでもありませんが、そこには観念としての情感の発露があるのではないのでしょうか。この発露は、誤謬を生む要素も含んでいるかもしれません… 連載 超訳プロレゴメナ 259 読書会編175
第25回目の読書会が、2019年3月9日(土)に、開催されました。今回は、Zoom使った4度目の読書会です。
今回は、第13節の補足3を中心にディスカッションしていく予定です。けれどもこも補足3は、かなり長く1回で終わるとは思えません。
また補足2では、カントが自分の立場を。観念論を否定するような形で自身の立場を表明しました。それが後の「観念論の論駁」につながったとも、ディスカッションの対象となりました。しかし、それは観念論の全面的な否定だったでしょうか。
人間の感性が、多くの経験を素に育まれることは言うまでもありませんが、そこには観念としての情感の発露があるのではないのでしょうか。この発露は、誤謬を生む要素も含んでいるかもしれません。しかし、誤謬の根源を明確に捉えることができれば、正しい観念論が成立できると思えてならないのです。
だから、 かってよく言われた「観念論対唯物論」という言葉は意味がないものと言っていいでしょう。
オブジェクトから捉えられる現象は、ぼくたちの感性で捉えますが、現象を生みだしたオブジェクトの存在は唯物的なものですからね…
だからここでは、観念論と唯物論を相克的な対立物と観る考えは存在していません。もう論を省いたほうがいいのかもしれません。
観念も唯物も、それぞれが時と場合で必要なもの、そう考えるのが正しい方向を目指すものものとなるのではないでしょうか。
牧野照邦:
補足3を読んでいると弁証論の冒頭で、誤謬の要因を分析している個所が、思い浮んできます。まだそこまでを読んでいる人は少ないかもしれませんけど! これはぼくの僭越ではなく、知っておいてほしいところなんです。
前島幸太郎:
それは、ここではないでしょうか
下記が資料表示画面に写されるとともに、前島幸太郎の朗読も加わった。
現象は感覚に依存したものだが、その判断は理解力の仕事(理解)になる。そうなると問題は、対象を決めるものが真実があるかどうかだけだ。真実が現実であっても夢であっても変わりはない。現実と夢の違いは、対象に表現によって確認されるのではなく(どちらの場合も同じだから)、処々の表象間の連結がいかに矛盾なく実現できるかにある。つまり物の表象が一つの経験の中で矛盾することなく存在できるかで決まることになる。 ぼくたちの認識が仮象を真実とみなすとき、ある対象がぼくたちに与える直観によって、対象の存在の概念が考えられる。存在そのものが理解できないとしてもないとしても、概念はそれに先行して確立している。
だれが言っているかは明確ではなかったが、納得の声も多く聞こえていた。
