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超訳 純粋理性批判 71 超越論的原理論編 71 それは、直観のスタイルでなく、多くの対象を結合した法則に従ったものだった。ここから、自然にたいしても法則を決定して、自然を合理的にとらえる識見が育まれるだろう… 

本文中の [nnn] 表記は、原書第2版のページ番号を示している

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第二章 純粋な理解力の演繹について

第二節 純粋な理解力概念の超越論的な演繹

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第26項 純粋な理解力の概念による、日常的に可能な経験的使用にたいしての超越論的な演繹
 
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 形而上学的な演繹では、カテゴリーのア・プリオリな起源は、その思考の一般的な論理的機能との完全な一致を通して証明された。ところが、超越論的な演繹では、直観一般の対象にたいして、ア・プリオリな認識としてカテゴリーの可能性が提示(第20項と第21項)されている。それがカテゴリーの使用で、ぼくたちの感覚に現れ、ア・プリオリに認識される可能性が生まれてくる。しかもそれは、直観のスタイルでなく、多くの対象を結合した法則に従ったものだった。ここから、自然にたいしても法則を決定して、自然を合理的にとらえる識見が育まれるだろう。なぜなら、カテゴリーがそんな形で役立つことがないとしたら、理解力からア・プリオリに生まれてくるだけの法則に、ぼくたちが従わなければならいのか、まったく不明になってしまう、そうじゃないのかい。
 ここで注意しておこう。ぼくたちが理解しているものは、経験的な直観からの多様なものを総合したものだ。それは直観が認識したものを総合したことで、現れたものだった。この結果として、知るという行為が実際的なものになり、経験的な直観の認識が、現象として確立する。 
 ぼくたちは、外的なものと、内的なものにたいして、感性の能力で、直観のスタイルをア・プリオリに持っている。この結果として空間や時間を、現象として描きだしている。だから、現象としての多様なもの総合(掴みとった総合)は、いつもこのスタイルに従うことになる。なぜなら、総合(掴みとった総合)そのものは、このスタイルだけに順守して出現する、そうしたものだからだ。ところで、空間と時間は、たんに感性的な直観のスタイルとして表象されているだけでなく、(多様なものを含んだ)直観そのものだから、直観での多様なものを統一からの規定で、ア・プリオリに表象されている(『超越論的感性論』を参照)*。
 こうして、ぼくたちは、外部や内部に存在する多様なものを総合した統一をも、すでに使用できるようになっている。なぜなら、空間や時間に規定されて表象されるすべてのものに順守する関係は、すべての把握の総合(掴みとった総合)の条件としての直観で(直観の中でではなく)ア・プリオリにすでに与えられているからだ。
 ところで、ここでいう総合的な統一とは、ある直観一般の多様な側面を、カテゴリーに従って根源的な意識の中で結びつけたものを、ぼくたちの感性的な直観に適用したものだった。この根拠から、ここでの総合は知覚をも可能にする。そしてこの総合は、カテゴリーを根拠に成立するものだ。経験とは結合された知覚を通じた認識だから、カテゴリーは経験の可能性の条件であり、多くの経験対象にたいしても、ア・プリオリに適用されることになる。

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空間は(幾何学では真に必然であるが)、オブジェクトとして理解できる。それは、たんなる直観のスタイル以上​​のものを含んだものだ。つまり、感性のスタイルに順守した結果として与えられた多様なものを直観の表象に総括するものだ。直観のスタイルは、たんに多様なものを与えるだけのものだが、スタイルが描いた直観は、(オブジェクトの現象としての)表象を統一することになる。
 ぼくは感性論では、この統一を、たんに感性に属するだけのものして、それ以上は言及しなかった。それは、その時点では、この統一そのものが、すべての概念に先だっているということ、それに注意を傾けてほしかったに過ぎない。
 しかし、この統一は、多くの空間と時間の概念を、初めて可能にするものなのだ。なぜなら、この(理解力が感性を規定する)統一にで、空間、そして時間が、初めて直観として与えられて、直観の統一が、ア・プリオリに空間と時間に属していることも明らかとなり、それは理解力の概念には属さないことも、明確になる(第24項参照)。

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