超訳 純粋理性批判 72 超越論的原理論編 72 経験的なものとしての知覚の総合は、知性的であり、すべてア・プリオリに含まれる自意識の総合と必然的に対応しなければならない… 想像力の名の下に、自意識ならば理解力の名の下に、直観の多様なものへの結合を生み出している…

第二章 純粋な理解力の演繹について
第二節 純粋な理解力概念の超越論的な演繹
第26項 純粋な理解力の概念による、日常的に可能な経験的使用にたいしての超越論的な演繹(承前)
[161]
* * *
[162]
たとえば、ぼくがある一軒の家を観ているとして,その状況を考えてみることにする。その家を知覚するためには、家についてすでに持っている経験的な直観から、様々な像を把握している必要もあるだろう。しかし、その土台となっているものは、空間と、外的な感覚によった直観とが、必然的な統一されたものなんだ。つまりぼくは、空間でのこうした多様なもの総合的な統一を受け入れて、家としての形を、描いたと言っていい。ここでの総合的な統一は、ぼくが空間の形を抽象化するとき、理解力が、直観一般での類似するものを総合するカテゴリーを生み出している。これが量のカテゴリーだ。だから、その把握での総合、つまり知覚は、この量のカテゴリーに完全に適合しなければならないことになる。*
* 経験的なものとしての知覚の総合は、知性的であり、すべてア・プリオリに含まれる自意識の総合と必然的に対応しなければならない。そこでは想像力の名の下に、自意識ならば理解力の名の下に、直観の多様なものへの結合を生み出している。
[162]
さらに他の例として、ぼくが水が凍結していくのを観ているとする。そこで(液体と固体という)二つの状態を、時間の進行と関係があるものとして認識することになるだろう。ところが、この現象を知覚として捉えているぼくは、現象の根底に内的な直観としての時間を通して、必然的なものを考えている。それは、多様なものの総合的な統一を考えていると言っていい。この統一がなければ、直観が(時間の順序として)その関係を。決定することは、けっしてできない。
ここに示した、総合的な統一は、下記から、直観一般で多様なものを結合するためのア・プリオリな条件として、示すことができる。ぼくが、内的な直観の持続的なスタイルとしての時間を抽象化するとき、一般的に直観の多様なものを統合するためのア・プリオリな条件として、原因のカテゴリーを、感性に適用することで、ぼくは一般に時間の中で起こるすべてのことをその関係に従って決定することになる。だから、こうした出来事では、認識、結果としての可能的な知覚での出来事が、結果と原因の関係という概念に従うことになる。これは、他のすべての場合に同じように指摘できる。
