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超訳 純粋理性批判 73 超越論的原理論編 73 純粋な理解の能力は、空間と時間で経験的と観られる結果に、法則として自然の現象が従うものを、カテゴリーをもって定めることになる。しかしそれは、たんなるカテゴリーを通して現象にア・プリオリな法則を規定するだけであって、それ以上のものではない… 

本文中の [nnn] 表記は、原書第2版のページ番号を示している。

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第二章 純粋な理解力の演繹について

第二節 純粋な理解力概念の超越論的な演繹

第26項 純粋な理解力の概念による、日常的に可能な経験的使用にたいしての超越論的な演繹(承前)

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 カテゴリーとは、現象、ひいてはあらゆる現象の総体としての自然(natura materialiter spectata)に、ア・プリオリに多くの法則を決定する。カテゴリーは自然から導かれたものではなく、自然をモデルとして従うものでもない。もし、自然から導かれたり、自然をモデルにするもの(そうだとすれば、ここまでに掲げた法則は、たんなる経験的に過ぎないものになる)とすれば、自然がこうしたカテゴリーに従うことを、どの理解すしたらいいのだろうか。じっさいにはカテゴリーは、多様なものの結合を自然から取り出したわけでない。だが、ここで言う結合を、ア・プリオリに決定できるのだ。それは、どういうことなのか、ここに生まれた疑問こそが、その正解を導きだす端緒と、なるものなのだ。

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 自然に観られる現象から成立する多くの法則が、どうして知性およびそのア・プリオリなスタイル、つまり一般に多様なものを結合する連結する能力にア・プリオリに対応しなければならないとされている。だが、ぼくたちを当惑させるものとして、これ以上のものがあるだろうか。 
 その前に、現象そのものが、どうして感性的な直観のスタイルとア・プリオリに対応するのか、そうした疑問があるが、ここでの疑問も、同じようにぼくたちを当惑させている。
 法則が現象そのものに存在しているわけではない。ただ、現象を内在させて描く主体、つまり知性を持つ主体との関係だけで存在している。同様に、現象もそれ自体としては存在してはいない。ただ、感覚を持った存在との関係を持つこと、それだけで存在しているのだ。オブジェクトそのものは、それを認識する知性の外にあっても、必然的にその法則を持っているだろう。しかし、現象は、オブジェクトが無意識のうちに、それ自体のうちに、ある可能性を持つかもしれないものに充足して存在するものの、たんなる表象に過ぎないのだ。だが、たんなる表象としての現象は、結合する能力で決定される結合の法則以外の結合法則には従わない。感性的な直観を多様なものに結合するのは想像力だ。想像力はその知的な総合の統一については理解力に準拠するものであリ、認識の多様な感性にも準拠している。
 多くの知覚は認識の総合に準拠し、その経験的な総合が完成するのは、超越論的な総合としてのカテゴリーに準拠した結果といえる。多くの知覚、さらに経験的な意識に到達できる多くのもの、つまり自然の多くの現象は、その関係から、自然(たんに自然一般として考えた)がその必然的な法則(自然の形式的な観念として)の根源的な根拠として準拠するカテゴリーの下に従わなければならない。
 こうして、純粋な理解の能力は、空間と時間で経験的と観られる結果に、法則として自然の現象が従うものを、カテゴリーをもって定めることになる。しかしそれは、たんなるカテゴリーを通して現象にア・プリオリな法則を規定するだけであって、それ以上のものではない。経験的に決定した現象に関する特殊な法則は、たとえそれが、すべて同じカテゴリーに準拠したとしても、そこから完全には導き出すことはできない。個々の法則の一般を理解するためには経験が必要だ。しかし、経験一般、そして経験の対象として認識できるものを教えるのは、ア・プリオリに導かれた法則だけなのだ。

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