超訳 純粋理性批判 74 超越論的原理論編 74 思考にたいしてカテゴリーは、ぼくたち人間の感覚的な直観の条件には制約はされていない。しかもそれが適用される範囲は、無限の領域を持っている…

第二章 純粋な理解力の演繹について
第二節 純粋な理解力概念の超越論的な演繹
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第27項 理解力の概念での、この演繹からの産物
ぼくたちは、カテゴリーの援助がなくては、どんな対象を捉えられない。その、いっぽうでは、カテゴリーに対応する直観がなければ、捉えた対象を認識することはできない。ところで、ぼくたちの直観は、そのすべてが感覚的であって、その認識は、その対象が与えられたものである限りでは、経験的なものだ。しかし、経験的な認識とは、経験のことだ。だから、可能な経験の対象に関係する以外は、ぼくたちには、ア・プリオリな認識も不可能なものでしかない。*
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* ここに書かれたことからは、結論らしいものが観えない。だから、本来の真意を把握する前に。読者は、腹立たしさを感じてしまうのではないか。それを避けるためにも、思考とカテゴリーの関係をここに書いておくことにする。
思考にたいしてカテゴリーは、ぼくたち人間の感覚的な直観の条件には制約はされていない。しかもそれが適用される範囲は、無限の領域を持っている。そしてぼくたちが。考えていること、思考を認識するには、認識対象としての客体を決定するためには、直観を必要としてることを、思いだしてもらいたい。ところが、この直観が欠けていても、客体についての思考は、主体の理性の使用については、有益な結果を与えてくれることもある。しかし、こうした理性は使用は、対象を決定する方向を目指すとは限らない。つまり、カテゴリーは「思考の器」にすぎなくて、認識を目指すのではなく、主体の意志の決定を目指しているものであり、今は、それを提示する時期ではない。
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ここまでの認識は、経験の対象だけに限定されている、しかしそのすべてが、経験から借用してきたものでもない。むしろ、純粋直観と理解力による純粋な概念は、ぼくたちには、ア・プリオリに認めることが可能な認識の要素だ。
ところで、経験とその対象とカテゴリーとの間で、必然的な対応関係が考えられる方法は、二つしかない。つまり、経験がそのカテゴリーを生み出すか、カテゴリーが経験を可能にするか、このどちらかだ。経験がカテゴリーを生み出す場合には、カテゴリーに関しては(純粋な感性的な直観にたいしてしても)、それは起こらない。なぜなら、カテゴリーはア・プリオリな概念であって、経験からは独立している(カテゴリーが経験に依拠することがあるとしたら、それは偶発的な発生(generationa aequivoca)と観られるものだろう)からだ。だから、残るのは後者(いわば純粋理性のエピジェネシスの体系)の、カテゴリーが経験を可能にする場合だけとなる。
つまり、理解力でのカテゴリーは、多くの経験一般の可能性の根拠を含ものだ。これが、どういう具合に、経験を可能にするのか、そして現象に適用するときに、経験の可能性のどのような原理を提供するのだろうか。これについては、判断力の超越的な使用を目的としたセクション(原則的な分析論)で、詳細に説明したい。
