超訳 純粋理性批判 75 超越論的原理論編 75 第三の道では、カテゴリーはその概念に本質的に属する必然性を欠くことになる… ある経験的表現を特定関係の従って結びつけるという、恣意的に準備された主観的な必然性のみに基づいている…

第二章 純粋な理解力の演繹について
第二節 純粋な理解力概念の超越論的な演繹
第27項 理解力の概念での、この演繹からの産物(承前)
[167]
前のステップでは、経験とカテゴリーとの間での、必然的な対応関係として考えられる方法は、二つだけしかないとした。ところが、だれかがこの二つの間に、中間となるものがあると主張したとしよう。それは、ぼくたちの認識のア・プリオリな最初の原理ではないし、経験から導き出されたものでもなく、むしろ、ぼくたちの存在そのものに生得的なものとして、備わっているとするものだ。なぜここに生得という言葉が登場するのか、それは人間の創造者に関係しているとの見解が、その背景にあることを示している。
それは、人間の経験とその進行が、自然法則と正確に一致するように配慮されている、そうした前提で、この第三の道が考えられているからなのだろう。つまり、(純粋な理性の一種の事前的形成のための)事前的なシステムを思考した結果なのだろう。という道筋を提唱するならば、その仮説では、予め定められた前提をもって、未来の判断にまでの拡張を、どう想像するのかが、不明解ものとなってしまうに違いない。だが、観点を無視するのであれば、第三の中間の道が決定的となるのだろう。
こうして、この第三の道では、カテゴリーはその概念に本質的に属する必然性を欠くことになる。なぜなら、与えられた条件で、結果の必然性を表現するための原因の概念が、ある経験的表現を特定関係の従って結びつけるという、恣意的に準備された主観的な必然性のみに基づいていることになり、その結果の正当性を裏づけを観ることがないのが事実だからだ。ここからは、下記のような主張があることも考えられる。
この結果は(必然的に)対象の原因と結びついている。むしろ人間は、結びついている以外の方法では、この表象を思い描くことができないようにできているのだ。
この主張は懐疑論者が、じっさいに、もっとも望んでいたことだった。なぜなら、そうであれば、ぼくたちの判断が、はじめから客観とされる妥当性(思い込み)に基づくもので、ぼくたちの洞察は、すべて幻想にすぎず仮象に止まるもでしかない。こうした主観的な必然性(感じられなければならないもの)は、自分にたいして認めない人もいるに違いない。どうであっても、自分の主観が、対象の様式に基づく事柄は、だれとも議論することは、できないだろう。
[167]
根拠を導くための演繹ついて、及びその簡単な結論
ここで説く演繹は、純粋な理解力の概念(さらにそれに伴うア・プリオリな理論的認識)を、経験の可能性を、原理として語ったものだ。これは、一般に空間と時間での現象が、そこから決定されるものとして語って、最終的には、自意識の根源的な総合と統一の原理に準拠して語ったものとなっている。それは、総合的統一が、感性の根源的なものとしての空間と時間の関係に対する、理解力の本来のスタイルを表現したものとなる。
* * *
ここまでのぼくは、いくつかの基本的な概念を問題として扱った。そのために、そのそれぞれにたいするセクションが必要だと考えた。項として分けたのは、その意味を持っていた。しかし今後は、その基本概念の使用について語っていくことになるから、項に分けることなく、連続的な叙述で進めていっても、ぼくの主旨は理解されると、考えている。
