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超訳 純粋理性批判 76 序説編 1 個々の科学は特有の領域を持っている。それ他の科学と融合させる事と個々の科学が持つ境界を拡張するかのように一見では観える。しかし、実際には拡大ではなく歪曲であると言っていい…

本文中の [nnn] 表記は、原書第2版のページ番号を示している

 前回で『超越論的原理論編]の半ばに達したが、今回からは序説編に移る。これはあえて後回しにしていたものだ。その理由は、超越論的原理論をある程度は踏まえておくほうが序文の内容胃が理解しやすいと判断したからだ。
 また、純粋理性批判全体のページ数はアラビア数字を用いているがが、序文はローマ数字になっている。本文の前にあると意味なのだろう。そこでこの連載ではそれを区別する意味で[bnn]とした。

超訳者注記

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第2版 序文

[b07]
 理性の探求の方法は認識が遂行する。それが確実に科学として途を辿っているかは、そこで獲得できている成果物からすぐに判断できる。 
 だが、探求の前に入念な準備をし、必要と想定できるものを用意していても、その作業を開始した瞬間に行きづまって、あと戻りしたり、探求の方法も別のものに変えなければならないことも多い。さらには共通の目標を持った共同者や協力者との間で、合意が得られない場合もあるだろう。それは目標の研究や科学について確実な途を辿っているのではなく、たんに手探りの状態にいると言っていい。
 それは、当初の準備で熟慮が不足したもの、もしくは見当外れがあった、それが招いた結果ともいえるだろう。そして中には、無駄になったことが明らかなものは廃棄しなければならない。しかし、そうだったとしても、その途で他の確かなものを発見することに努力すること自体が、理性のための功績になっていくことは疑いない。

[b08]
 論理学は、二千年以上の昔からこうした途を辿ってきた。それはアリストテレスから始まって以来、後退の必要が、その後は一歩もなかったことからも解ることではある。たしかに、些細な表現の排除があり、提示されたものに明確な定義を与える、そうした改善はあったが、論理学そのものは一歩も後退することはなかった。しかし、そこに観える改善は、論理学の確実性を加えるよりも、それを優雅な表現で見繕うものが大半だった。また、今日に至るまで一歩も前進していない、それで多くの点から、論理学は完成形であるように観えていることも、ぼくたちには考えなければならないものではないか。 
 最近になり、論理学に携わる人たちのなかから拡張の試みとして認識の力(想像力、機知)について心理学的な追加もなされた。また認識の起源と客観との差異に対応して、(観念論、懐疑論にたいし)確実性についての形而上学的な追加も行われた。さらには、偏見(その原因と対策)に関して人間学的な追加を行って論理学を拡張しようと目論んでいる人もいる、だがこれは論理学が持つ特有性をまったく理解していないことから生まれたものだった。
 個々の科学は特有の領域を持っている。それ他の科学と融合させる事と個々の科学が持つ境界を拡張するかのように一見では観える。しかし、実際には拡大ではなく歪曲であると言っていい。また論理学も、明確な境界を持っている。それはすべての思考のスタイルに関係する規則を、漏れなく指摘しその真理を厳密に証明するところにある。つまり、その思考に方法について(先験的なのか、経験的でなの、どんな起源や対象を持っているは、さらにぼくたちの心の中で障害として生まれるものが偶発なのか自然なのかに関係なく)精緻化し厳密に証明する科学であるという事実が、すでに論理学を明確に定義している。

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