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超訳 純粋理性批判 115 序説編 40 幾何学者が前提としているいくつかの基本原則は、たしかに分析的であり、矛盾の規則に基づいたものだ。しかし、そうしたものは、同一性の命題で方法の連鎖の中で用いられた同じように、それ以上にものになることもなく、原理として機能しているわけではない…

本文中の [nnn] 表記は、原書第2版のページ番号を示している

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V. 理性のすべての理論的な科学には、ア・プリオリな総合的な判断が原理として含まれている(承前)

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 また同じように、純粋幾何学の原則も分析的ではない。二点の間の最短の距離は直線で表わされるって命題は、総合的な命題だ。なぜなら、ぼくが持っている直線の概念には、大きさ(量)に関係したもの(要素)は含まれていいない、ただ質に関係したものだけしか含まれてないからだ。そして、最短という概念は、まったく後から付け加えたものなんだ。このだから、直線の概念を、どんなに分析したって、これが導き出せるわけはない。それだからここでは、直観の助けを借りて概念を捉えなければならない。その結果としてだけで、総合が可能となるのだ。

[016]
 幾何学者が前提としているいくつかの基本原則は、たしかに分析的であり、矛盾の規則に基づいたものだ。しかし、そうしたものは、同一性の命題で方法の連鎖の中で用いられた同じように、それ以上にものになることもなく、原理として機能しているわけではない。
 たとえば、a=a、全体はそれ自身と同一だ、または (a+b)>a、つまり全体は部分よりも大きい、などがある。しかし、こうした命題も、たんに概念としては、たしかに真と言える。けれども、これが数学に承認されるのは、直観で表現され提示できるからにすぎない。
 こんな断定的な判断の述語が、すでに概念のなかに潜んでいて、ぼくたちにその判断が、一般的に分析的なものって信じ込ませる理由は、たんに表現が曖昧だからなんだ。
 ぼくたちには、与えられた概念にたいしては、特定の述語を考えだして付け加え、この曖昧な点を回避していく義務がある。それは、概念じたいに内在している必然的なものとも言っていい。
 けれども、ここでの本質的な問題は、与えられた概念に何かを付け加えるってことじゃない。ぼくたちの義務は、たとえ漠然とであっても、その概念を通して、じっさいに何を考えているかってことなんだ。ここで述語は、たしかに対象の概念に必然的に付随してはいるけれど、概念それ自体の中で考えられているのじゃない。あきらかにそれは、概念に付け加えられることを必然とした直観を経て、つけ加えられているものだ。

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