超訳 純粋理性批判 1 超越論的原理論編 1《もの》としての対象は感性という媒体を通じてぼくたちに与えられる… つまり感性だけがぼくたちに直観を与えてくれる…

超越論的原理論
第1部 超越論的感性論 まえがき
第1項
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多くの《もの》やその現象に認識が関係できるのは、ぼくたちが直観をもっているからだ。どんな方法や手段を使っても、認識が対象に直接関係し、思考が目指すことができるのは、ぼくたちの直観が重要な役割を遂行しているからなのだ。だが直観が機能するのは、対象がぼくたちに与えられた場合に限って起こるってこと(事象)を忘れちゃならない。少なくともそれが特定の方法で心に影響を与える場合、ぼくたち人間にとって認識を可能にするものはこれだけしかないってことなんだ。
いろんな《もの》対象としてある影響を受ける。その影響を通じてぼくたちは思考を、かたち創っている。この思考を形成する能力(受容性)が感性と呼んでいるものだ。《もの》としての対象は感性という媒体を通じてぼくたちに与えられる、つまり感性だけがぼくたちに直観を与えてくれる、そういうことなんだ。さらにそれらに対して理解力を用いて考えることで、ものごとの概念が生まれてくることになるってわけだ。
しかしすべての思考は、直接的であろうと間接的であろうと、最終的にはある特性によって直観、つまりぼくたちの場合は感性に関係しなければならないんだ。なぜなら、それ以外の方法では対象をぼくたちに与えるものは、何もないからだ。 《もの》がぼくたちに想像力を与えることから、ぼくたちがその《もの》の影響を受けとっている。それは感覚と呼ばれてる。さらに感覚を通じて対象に関係する直観を経験と呼んでいる。経験は直観の対象からは不確定なものなんだから特定なんかできはしない、けれども一般にはそれを外観と呼んで区別していることは、憶えておくほうがいいんじゃないのか。
[036]
現象を観ているときには、ぼくたちの感覚が懸命に働いている。それは個々の事象に対する直観の連結した作用ともいえるだろう。これは経験を生み出すためのぼくたちの観察のための手続きだ。
そのなかでも感覚に対応するものを、ぼくは特別に現象のための資源と呼んでいる。だが現象にはいろんなものがある。それでも現象から特定の関係を導きだして秩序を持たせることは可能なことだ。それを資源と区別してぼくは現象の形式と呼んでいる。感覚が組織化され、ある形で配置されて一つの形になったもの、それ自体はもう感覚なんては言うことはできはしない。そこに現われたもの、すべての現象に対して現れた《もの》は、ぼくたちが生みだしたものじゃない。現象の観察のなかでア・ポステリオリ(後験的)に与えられたものなのだ。しかしその形式自体は、ぼくたち自身のなかではア・プリオリ(先験的)に利用可能なものでなければならない。だからここに言う形式とは、すべての感覚から切り離して考えることが、できなければならないのだ。
※ ほんらいは、オブジェクトとしたいところを《もの》としている。それは、まだオブジェクトの概念に触れていないからだ。ここではその対象が重要なものであることを示すために《もの》とした。
