学ぶことは受験勉強ではない! 無味乾燥で前後の関係もわからないことを記憶の襞にしまい込むことは、学ぶこととは無関係なことだ! 連載 超訳プロレゴメナ 76 プロローグ編15
学ぶことは、たしかに容易なことではない。しかし学ぶことで苦労をする必要もない! 未知であることに臨めば多くが判らないことなのは当然だが、指針や道標の在処さえ探し当てれば、苦労は感じなくなるものである。
学ぶことは受験勉強ではない! 無味乾燥で前後の関係もわからないことを記憶の襞にしまい込むことは、学ぶこととは無関係なことだ!
ある分野を対象にして学ぶことが、記憶を強制し苦痛を与えるものであれば、それは、今の自分にとって必要がないものだと早く判断してしまうことは重要だ。
カントは読者の立場を考慮して下記のように表した。
完全に孤立した独自の科学を対象に、考察を進めていくことは、以前から知られている知識に頼ることができないのだ。たとえ過去の知識に似たものがあっても、似ているだけで実際は異なっているのだが、読者がそれに気づかないことも考えられる。
長年のぼくたちの慣習を思えば、それは解るはずだ。一般に著者の考え方でなく、自身の慣習で確立した概念を基礎に読み解こうとするのが、読者なのだ。
だから『純粋理性批判』のすべてが、読み辛く、不条理で、意味不明に観えるのも当然だろう。
だがそこに書かれたものではなく、科学自体の主題に依存するものとして捉えることができるなら、以下は好都合なことなのだ。
だから多くが『純粋理性批判』を読み辛いものと、読む前から考えてしまう。そうした読者が多いのも当然と言っていい。
しかしプロレゴメナは、指針や道標として用意されたものだと言っていい。前後するが、上記の手前に以下が書かれている。
ヒュームですら、こうした整備された科学の到来を予測はしなかった。自分の船を安全に保つために航海せずに海岸(懐疑的な考え)に放置したのだ。そのままなら船は朽ちて使い物にならなくなるのだろう。
ぼくはそうする代わりに航海術を身につけて海洋に旅立つことを選ぶ。地球の知識に基にして、そこから導き出された完全な海図と羅針盤を備え、船を安全な場所に導くことができる水先案内人を、読者に与えることにする。
この観点でプロレゴメナを、批判科学の水先案内人として捉えることは可能なことなのだ。
しかしそれでも興味を抱くことができないならば、近づくことも止めておくべきだろう。
