言葉が通じなくても、見ることはできる——大連の冬が教えてくれたこと
家業を、閉じてしまいました。
長く続けてきた家業の農園を、閉じる決断をしたのです。
経営の責任は自分にありました。
最終的な判断は長兄と共にしましたが、終わりを受け入れたのは自分でもあったわけです。
何かが終わったとき、次に何が始まるのか。
私の場合は、異国への誘い(いざない)でした。
「行け」と、妻は言った。
知人から連絡が入ったのは、家業を閉じてまもなくのことでした。
「仕事探しているんだよね?中国へ行く気・・・ない?」
場所は、大連。
そこより少し北東寄りの農村地帯です。
家業を閉じたばかりで、私はフリーの状態でした。
迷う理由は、自分にはありませんでした。
昔から中国に憧れていたことも理由の一つです。
何より、稼がなければいけない、という現実もありました。
即答しました。
妻に話すと、一言でした。
「行け」
笑いながら言いました。
後から思えば、妻の方がよほど精神的に追い詰められていたはずです。
それでも、即答でした。
縁、という言葉が浮かびました。
タイミングが重なるとき、人はそう感じるのかもしれません。
日本人、一人。
大連の冬は、鹿児島育ちの自分には想像を超えていました。
ある朝、温度計を見るとマイナス20度でした。
ただ、どんよりした日本特有の冬空ではありません。
突き抜けるような青空に、太陽が眩しく輝いていました。
その太陽が、ハウスの中を暖める。
外はマイナス20度、ハウスの中は30度を超える。
寒暖差50度の世界で、私の体はおかしくなりそうでした。
でも作物は育っていました。
農園の規模は、日本では考えにくいものでした。
コンクリートの北壁にアーチ状のビニールを張った、日本では見かけない形のハウスが50棟近く並んでいます。
屋根の上には断熱材が巻かれ、極寒の冬に備えていました。
豚舎もありました。
そして孔雀舎も。
ーー観賞用だと聞きました。

農園の奥には大きな池がありました。
冬には凍りつき、その水面の上に、渡り廊下でつながった東屋が鎮座していました。
池の周囲には白い欄干の遊歩道が巡り、手前には石像まで立っている。
そしてその奥に、パオ型の別荘が建っていました。
オーナーの娘のために構えた農園だと聞きましたが、その娘はまだ小学生でした。
スケールの感覚が、根本的に違う。
働き手は20数人。
農場長と管理長、数人の運転手、そして農民たち。
日本人は、私一人でした。
中国語は、できませんでした。
言葉より先に、見ること。
通訳はいました。
でも、農業用語の中国語訳を知っているとは限りません。
専門用語を別の言い方に変えて、それを通訳に渡す。
伝言が重なるほど、意味は薄まっていきます。
一度、働き手全員を集めて農業の基本を話したことがあります。
通訳を介して、丁寧に説明しました。
でも、手ごたえがありませんでした。
学校を出ていない人が多く、言われた仕事だけをする、というスタイルが根付いていました。
講釈は、届きませんでした。
そこで方針を変えました。
農場長一人に絞ることにしたのです。
彼は外国人研修生として日本で3年間農業を学んだ経験があり、農民たちを束ねる立場にありました。
日本語も少しできました。
毎日、仕事の合間に1時間から2時間、一緒に農場を歩きました。
言葉ではなく、作物を指さしながら。この葉の色は何を意味するか。
この茎の様子は、何のサインか。
通訳が必要なときは、ノートに描きながら伝えました。
言葉より先に、見ることを共有する。
それ以外に、方法がありませんでした。

キュウリが白くなった朝
「有病!有病!」
ある日、農場が騒がしくなりました。
何と言っているか 意味も発音も分からない。
でも、何かが起きているということだけは伝わりました。
通訳に聞いてみると、「病気だ!病気だ!」と。
キュウリの実が真っ白になっている、というのです。
私は農場に向かい、実を手に取りました。
白い粉が、表面を覆っています。
ブルーム、と呼ばれるものです。
キュウリが自分を守るために分泌する、天然の保護物質です。
水分の蒸発を防ぎ、病原菌の侵入を防ぐ。
実についている白い粉は、健康のしるしです。
一方、葉や茎に同じように白い粉がついても、こちらは「うどんこ病」という病気になります。
見た目が似ているので、混同されやすい。
でも、実についているなら心配はいりません。
よく観察するように言いました。
どこについているか。
葉か、茎か、実か。
その日は実についていました。
健康に育っている証拠だよ、と伝えました。
農場長は、しばらくキュウリの実を見ていました。
それから、うなずきました。
別の日には、葉が白くなりました。
その日は薬剤散布と環境改善の指示を出しました。
同じ「白い」でも、見る場所が違えば、意味が違う。
慌てて判断する前に、まず見る。
どこを見るかで、見えるものが変わるのです。
観察することは、ずっと続いていた
帰国してから気づいたことがあります。
農業を長くやってきた。
作物のサインを見落とさないために、観察することを体に刻んできた。
でも大連で学んだのは、作物に対してだけではありませんでした。
言葉が通じない相手を、どう理解しようとするか。
相手の表情、動き、反応。言葉の代わりに、そういうものを読む。
それは、聴覚障害を持つ自分が、長年やってきたことでもありました。
言葉が届かないとき、人は別の何かで補う。
相手の口の形、目の動き、場の空気。
言葉以外のものを、静かに読み続ける。
大連での半年間は、その感覚をもう一度、別の形で使った時間だったのかもしれません。
言葉にできない困り感を持つ子どもを目の前にするとき、言葉より先に、その子の様子を見ることから始めます。
作物も、言葉の通じない相手も、言葉にできない子どもも。
観察することが、最初の一歩でした。
急かさないこと。
答えを急がないこと。
それは、大連の冬にも、変わりませんでした。
この連載では、実体験や現場での観察をもとに、AIも活用しながら文章化しています。 記事内画像にはAI生成イメージを含みます。
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