成績が上がると、子どもの顔が変わる。——学習塾で気づいたこと
前の回に、3人組の女子生徒との話を書きました。
教室の外から呼んでいたのに、私には届かなかった。
あの誤解が解けてから、3人はむしろ以前よりなついてくれました。
根はいい子たちでした。
それから私は、少し変わったと思います。
視野を意識的に広げるようになりました。
目の前の生徒のノートを見ながらも、教室全体の気配を感じ取ろうとする。
耳では補えない分を、別の感覚で補う。
それは、長年やってきたことでもありました。
「勉強の仕方が分からないんです」
面談になると、よく同じ言葉を聞きました。
「先生、うちの子、勉強の仕方が分からないんです」
お母さん方は、どこか申し訳なさそうに言います。
そして続けて、「だから家では全然勉強しないんです。
勉強の仕方を教えてください。」と。
家で勉強する時間がなければ、成績はなかなか上がりません。
でも、「勉強しなさい」と言えば済む話ではないと、当時から感じていました。
その家庭では、朝起きたら「おはよう」と言う、夕飯の前にお風呂を済ませる、といった習慣はあるはずです。
そういう毎日の流れの中に、勉強する時間が自然に組み込まれていない。
なぜそうならなかったのか。
そこに、根本的な問いがある気がしていました。

一番気になっていたのは、家の中で親が本を読んでいるか、ということでした。
新聞を広げる姿。
本に目を落とす姿。
小さな頃に、読み聞かせの時間があったか。
子どもの「なぜ?」に、親が立ち止まっていたか。
そういう家の空気が、じわじわと子どもの勉強の仕方を形作っていくように見えました。
もちろん、それだけで決まるわけではありません。
私自身は、聞こえない部分を補うために本を読み漁りました。
同じ家で育った私の兄弟たちが、同じ行動をしたわけではありません。
でも、文字を読むことに抵抗がない子は、やはり違いました。
そのことは、塾の中でも、はっきり見えていました。
成績が上がる子と、上がらない子
個別指導を続けていると、成績が上がる子と、そうでない子の違いが、少しずつ見えてきます。
「分からない」と言える子は、上がります。
問題に詰まったとき、「ここが分からない」と言える子は、つまずいている場所が分かる。
分かれば、そこに戻れる。
戻れれば、次に進める。
難しいのは、「分からない」と言えない子です。
うなずいています。
でも理解はしていない。
次の問題も、同じところで詰まる。
急かしても、解決しません。
「なんでさっき言わなかったの」と言っても、何も変わらない。
むしろ、次から余計に言えなくなる。
なぜ言えないのか。
恥ずかしいから、という子がいます。
怒られると思っているから、という子もいます。
そもそも、何が分からないのかが分からない、という子もいました。
「どこまでは分かる?」という聞き方
「分からない」と言えない子には、聞き方を変えていました。
「どこまでは分かる?」
この一言で、少し違う場所に戻れることがありました。
全部が分からないわけではないのです。
どこかまでは分かっていて、ある一点で止まっている。
その手前を見つけることが、先に進む鍵になります。
「ここは分かる」という場所を確認すると、その子は少し安心します。
そこから一歩先だけ、一緒に考える。
一歩分かると、もう一歩が見えやすくなる。
今でも、その感覚は残っています。
子どもでも、大人でも、「どこまでは分かっているか」を丁寧に確かめることから始めると、少しずつほぐれていく場面があります。
顔が変わる瞬間
成績が上がったとき、子どもの顔が変わります。
テストの点数が上がって帰ってくる子の顔は、登塾してきたときからすでに違います。
何かを持ってきた子の顔です。
特に印象に残っているのは、ある男の子のことです。
最初に来たとき、算数の点数は30点台でした。
それが、2か月ほどで70点を超えた。
何か特別なことをしたわけではありません。
ただ、毎回「どこまでは分かる?」と確認しながら、一歩ずつ戻っていきました。
掛け算は分かる。
割り算の意味も分かる。
では余りが出るのはどういう場合か。
筆算の手順は、ここで詰まっている。
戻るたびに、その子の顔が少しずつほぐれていくのが分かりました。
「あ、そういうことか」
その瞬間が、何度かありました。
70点を持って帰ってきた日、その子は何も言いませんでした。
でも、顔が違いました。
少し胸を張っていた気がします。
子どもは、言葉ではなく顔で教えてくれます。
そのことを、あの頃に学びました。
字を読むことに、抵抗がない子
塾に来る子の中に、もともと頭のいい子がいました。
そういう子の共通点は、問題文をスラスラ読める、ということでした。

長い文章でも、詰まらない。
難しい漢字が出てきても、止まらない。
字を読むことに、抵抗がない。
理解も早い。
それは「賢い」というより、文章を読むことに慣れているからではないか、と感じていました。
そこで、悩むお母さん方に一つだけ話していたことがあります。
「一度、教科書を最初から最後まで読ませてみてください」
まだ習っていないから、分からなくていい。
ただ文字を追うだけでいい。
それだけでも違う気がします、と。
実際にやってくれた家庭があったかどうかは、分かりません。
でも、伝えずにはいられませんでした。
「急かさない」は、当時からあった
振り返ってみると、今の自分の考え方の多くが、あの塾の3年間の中にありました。
急かさないこと。
どこで詰まっているかを確かめること。
顔の変化を、見逃さないこと。
そして、問いを持ち続けること。
当時は、こんなふうに言葉にはしていませんでした。
ただ、目の前の子どもを見ながら、そうしていただけです。
それが今になって、少しずつ言葉になっています。
保育士の勉強をしながら、塾での場面をよく思い出しました。
発達の段階を学ぶとき、「これは、あの頃の子と似ている」と感じることがありました。
学んでいるはずなのに、記憶に会いに行っているような感覚でした。
お母さん方の「勉強の仕方が分からない」という言葉も、今なら少し違う聞こえ方がします。
それは子どもへの問いではなく、どこかで自分自身への問いでもあったのかもしれない、と。
経験と知識は、別々には育たない。
どちらかが先に来て、後からもう一方がついてくる。
そのとき初めて、二つが一つになる。
あの3年間が、そういう時間だったのだと、今は思っています。
この連載では、実体験や現場での観察をもとに、AIも活用しながら文章化しています。 記事内画像にはAI生成イメージを含みます。
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