言葉を集めて、生きてきた。——本と辞書と教科書と
ある日、こんなことを言われました。
「何か聞くと、教科書か辞書に書いてあるそのままみたいな答えが返ってくるね。」
褒め言葉なのか、そうでないのか、少し迷いました。
でも、たぶん、当たっていると思います。
なぜそうなったのか。
それは、聞こえなかったからだ、と今は思っています。
補聴器のことは、前に書きました。
今日は、もう少し内側の話をしたいと思います。
分かったふりを、ずっとしていた
子どもの頃から、聞こえにくかった。
授業中も、友人との会話の中でも、何を言われているのか分からないまま、うなずいていた時期があります。
最初は、聞き返していました。
「え、何?」と。
でも、何度も繰り返すうちに、周りの空気が変わるのが分かりました。
嫌になっているのが、伝わってくる。
その空気を感じてから、聞き返せなくなりました。
うなずいておけば、とりあえず会話は続きます。
だから、別の方法を身につけました。
前の言葉と後の言葉から、間に何が入るかを推測する。
相手の表情や、その場の空気から、文脈を読む。
聞こえなかった部分を、聞こえた部分で挟んで、補う。
それを、しょっちゅうやっていました。

補うために、言葉を集めた
類推するには、材料がいります。
言葉の意味を知っていなければ、前後から推測することもできません。
だから自然と、言葉を集めるようになりました。
小学校の図書館の本は、端から端まで読みました。
定期購読の月刊誌は、雑学ページも友達紹介のページも、隅まで読みました。
買ってもらった小学生向けの百科事典全集は、確か20巻ほどありました。
それを、1巻目の最初のページから、最終巻の最後のページまで、全部字を拾いました。
少年少女世界名作全集は、確か全55巻。定期的に届きます。届くと、2日で読み終えてしまう。
次の配本まで、また手持ち無沙汰になります。
それでも、その間も別の本を読んでいました。
新学年になって教科書が配られると、家に持って帰ってその日のうちに全教科読みました。
算数も、国語も、理科も、社会も。
字があれば、読みました。
それが結果として予習になって、授業はだいぶ楽になりました。
意図してやったわけではありませんでした。
ただ、読まずにはいられなかっただけです。
今思い返すと、今の自分では考えられないような驚くべき読書量でした。
でも当時は、ただ読んでいました。
ひまさえあれば、すぐ本を開いていました。
「何か聞くと、教科書か辞書に書いてあるそのままみたいな答えが返ってくる」と言われたのは、そういうことだと思います。
聞こえない分を、言葉の蓄積で補ってきました。
それが長い時間をかけて、自分の一部になっていったのだと思います。
ただ、気づいていませんでした。
自分がそうやって育ってきたことを、ずっと意識していなかったのです。

保育士の勉強をしながら、気づいたこと
保育士の資格を取るために、子どもの発達について学びました。
その中で、「聴覚情報処理障害(APD)」という言葉を知りました。
耳から入った音を、脳で正しく処理するのが苦手な状態のことだといいます。
雑音の多い場所や、長い話の聞き取りが、特に困難になります。
読んだとき、少し止まりました。
私の場合、音として聞こえてはいます。
でも、何を言っているのかが、うまく処理できないことがあります。
騒がしい場所では、言葉がただの音になってしまう。
——あれは、そういうことだったのかもしれない。
単純に「聞こえにくい」という話ではありませんでした。
聞こえているのに、分からない。
その状態に、ようやく言葉がついた気がしました。
それは、かつての自分だったかもしれない。
知識として読んでいたはずの文章が、記憶と静かに重なっていきました。
補い方は、人によって違う
子どもは、足りない部分を、それぞれの方法で補います。
笑顔で補う子がいます。
場の空気を読んで、ちょうどいいタイミングで笑う。
何が面白かったのかは分からないけれど、みんなが笑っているから笑う。
沈黙で補う子がいます。
答えが分からないとき、答えないことで、分からないことを隠す。
動きで補う子もいます。
言葉が届いていないのに、周りを見て同じ動作をする。
だから、遅れているように見えない。
どれも、よく観察しなければ気づけません。
「分かっている」ように見えるから。
そして、その子自身も、補っていることに気づいていないことがあります。
私がそうだったように。
静かな子を、急かしたくない
保育の場で「静かな子」を見るとき、私は少し立ち止まりたいと思います。
この子は今、何を補っているのだろうか。
どこが聞こえていて、どこが聞こえていないのだろうか。
疲れていないか。
そういうことを、場面の外側から想像できる大人でいたいと思っています。
「できている」「問題ない」と見えても、その子の内側では、ずっと何かを補い続けているかもしれません。
急かすことが、怖い。
補う余裕のない速さで進めていくことが、怖いのです。
補うことは、弱さではない
ただ、一つだけ思うことがあります。
補うことは、弱さではない。
聞こえない分を言葉で埋めてきた時間は、今の自分をつくりました。
類推する習慣は、観察する目になりました。
読書の蓄積は、問いを深める力になりました。
「教科書か辞書みたい」と言われたあの言葉は、長い時間をかけて積み上げてきたものへの、思いがけない評価だったかもしれません。
足りない部分があるから、別の何かが育つことがある。
保育の場で子どもを見るとき、その子の「補い方」を見つけられたなら。
それは、その子の強さを見つけることでもあると、今は思っています。
この連載では、実体験や現場での観察をもとに、AIも活用しながら文章化しています。 記事内画像にはAI生成イメージを含みます。
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