三歳の我慢。——迎えに行くまで
三歳の子にも、我慢する日があります。
子どもがまだ小さかったころ、東京で開かれる二つのイベントに、夫婦で参加する機会がありました。
私は農業法人の関係で。
妻は男女共同参画に関する研修事業の関係で。
会場は別々です。
当時、長女は三歳、長男は一歳でした。
もちろん、二人だけを鹿児島に残していくことはできません。
当時、農林水産省内には一時預かりがあり、その日だけ子どもたちをお願いすることができました。
朝早く、私たちは二人を連れて預かり所へ向かいました。
泣かなかった娘
長男は、預けるとすぐに泣き出しました。
一歳ですから、無理もありません。
ところが、三歳の長女は違いました。
少し事情が分かっていたのでしょうか。
保育士さんに手を引かれながら、口をきゅっと結び、何も言わずに歩いていきました。
泣きませんでした。
その姿を見送りながら、私たちはそれぞれの会場へ向かいました。
後ろ髪を引かれる思いとは、こういうことを言うのだと思います。

イベントが終わったのは、私のほうが少し早く、午後一時前には迎えに行くことができました。
預かり所の扉を開けた瞬間の光景は、二十年以上たった今でも、昨日のことのように思い出せます。
部屋の向こうで、長女が弟を抱きかかえるようにしながら、一緒に遊んでいました。
その姿は、小さな「お姉ちゃん」そのものでした。
娘はまだ、私に気づいていません。
朝預けたときと同じように、口を固く結んだまま、遊んでいる弟の世話をしていました。
そして私の姿を見つけた、その瞬間です。
娘の顔が、一瞬でくしゃくしゃになりました。
「わぁーん!」
大きな声を上げて泣きながら、私のところへ駆け寄ってきたのです。
私は驚きました。
朝は泣かなかった子が、私の顔を見た途端、堰を切ったように泣き始めたのです。
その変わりように、私はただ、驚くやら、愛しいやら。
保育士さんが笑顔で教えてくださいました。
「お姉ちゃん、お昼ご飯も弟くんにしっかり食べさせて、面倒を見ていましたよ。」
その一言で、胸がいっぱいになりました。
三歳の子どもが、自分も初めてで、周りは知らない子ばかりの場所で過ごしながら、一歳の弟のことを気に掛けていたのです。
その場で長女を思いっきり抱きしめました。
横に長男がニコニコして寄ってきました。
三人だけの東京
妻のイベントは、もう少しかかる予定でした。
私たち三人は、農林水産省を出て、街路樹の並ぶ歩道で妻を待つことにしました。
ちょうど銀杏が色づく季節で、歩道のあちこちに黄色い葉が落ちていました。
長女はピンクの花柄のワンピースに、黄色いリュック。
長男は赤いトレーナーに、ボーダーのズボン。
その日のために選んだ服でした。
ベビーカーを畳み、代わりに持ってきた緑色の防寒着を歩道に広げると、長男はその上を這い回りました。
長女は、安心した様子でリュックを抱えつつ、長男のそばでつかず離れずしていました。
周りにはスーツ姿の人たちが足早に歩き、車が絶え間なく走っています。
東京という大都会です。
けれど、不思議なくらい、その景色をほとんど覚えていません。
覚えているのは、子どもたちの姿だけです。
どれくらい待っていたのか、正確な時間は分かりません。
十分だったのか、三十分だったのか。
長かったという記憶はなく、二人の様子を見ているだけで、時間が過ぎていったように思います。
私は二人を見守りながら、妻を待っていました。
世界でも有数の大都会の真ん中なのに、その時間だけは、私たち三人だけの小さな世界がありました。
当時は、それが特別な時間だとは思っていませんでした。
子育て中は、毎日が慌ただしく過ぎていきます。
次の予定を考え、荷物を持ち、食事をさせ、転ばないように目を配る。
そんなことに精一杯でした。
けれど今、あの日の写真を見返すと、一番大切だったのはイベントでも東京観光でもありません。
妻を待っていた、あの何でもない時間でした。
翌日に分かったこと

翌日は、家族で大きな遊園地へ行きました。
子どもたちにとって、初めての夢の国です。
入園した直後は、長女も元気でした。
ところが昼前になると、みるみる顔色が悪くなり、高い熱が出てしまいました。
長女はとうとう歩けなくなり、本来なら長男が乗るベビーカーに座りました。
すると、そのベビーカーを長男が一生懸命押そうとしていました。
これを見て、遊ぶことをあきらめました。
私たちは予定を切り上げ、ホテルへ戻ることにしました。
ところが、その日の夜には、何事もなかったように元気になったのです。
知恵熱ではなかったと思います。
私は医師ではありませんから、本当の理由は分かりません。
でも今でも、こう思うのです。
あの子は、前の日からずっと気を張っていたのではないか、と。
朝、泣かなかったこと。
弟のお昼ご飯を食べさせていたこと。
私の顔を見るまで、口を結んでいたこと。
顔を見た瞬間、安心して泣き出したこと。
そして翌日に熱を出したこと。
私の中では、そのすべてが一本の線でつながっています。
弟は、預けるときに泣いて、迎えに行くと笑っていました。
お姉ちゃんは、預けるときには泣かず、迎えに行くと泣きました。
本当に頑張っていたのは、きっと三歳のお姉ちゃんのほうだったのだと、私は今になって思います。
この連載では、実体験や現場での観察をもとに、AIも活用しながら文章化しています。 記事内画像にはAI生成イメージを含みます。
はじめてお読みになる方へ
この連載の自己紹介はこちらです。
▶ 「いくつもの道を、歩いてきました。」
連載を第1回から順番に読む方はこちらです。
▶ マガジン
