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ある若いアメリカ人キリスト教徒の話──語られなかった福音

※この話は、ある本を読んだ一つの感想として書いています。現実に即した出来事を題材にしています。信教・思想・良心の自由を尊重しつつ、キリスト教に関する一つの考察としてお読みください。


山で出会った二人

ある時、日本に住む若いアメリカ人キリスト教徒が山に登っていました。
その山には、年老いた一人の見知らぬ老婦人も来ていました。その女性は、山にある神社に立ち寄り、静かに手を合わせて祈っていたそうです。

その祈りの姿は、派手さとは無縁で、むしろ慎み深く、深い敬虔さを漂わせていたといいます。


若者の思い

その時、若いアメリカ人は、胸の中で葛藤していたそうです。
「もし、ここで声をかけるとするならば、使徒言行録に描かれた使徒パウロのように、見知らぬ神を信じるこの人にキリストの福音を告げるべきではないだろうか。」

しかし、その言葉は、音に響くことはなく、心の中にとどまりました。後に彼は、語ることが出来なかった、と言ったそうです。

なぜ語れなかったのでしょうか。
老人の姿勢に、近づきがたい雰囲気を感じ取ったからでしょうか。
あるいは、語っても受け入れられないという直感があったのでしょうか。
または、自分自身がまだ十分に語れる状態ではないのではないかという自己吟味と迷いがあったのでしょうか。
果たしてキリストを信じ切る信仰がなかったと言えるのでしょうか。
さらに、老人にとっての大切な思い、信仰を否定したくはないという心理もあったのかもしれません。
人間的な優しさから、あえて言葉を控えたのかもしれません。
加えて、日本の文化そのものを尊重する思いもあったのではないかと考えることも出来るのかもしれません。


語られなかった福音

この出来事の裏側にある真実を知るのは、その若者本人と、そして神のみとも言えます。

しかし確かなことは、信仰によるならば、その瞬間も神の前に開かれた場であったということでしょう。老人は祈り、若者は沈黙のうちに自らを問いました。その沈黙の重みは、言葉を超えた問いかけとなって、彼の心に残り続けたに違いありません。


死後の運命は決まるのか

あるプロテスタント的な視点でものを見る時、私たちは思います。
このような個人の「語るか、語るまいか」という一時の選択だけで、本当に人の死後の運命は決まるのだろうか。
そんなに単純化された構造があるのだろうか。

特にプロテスタントの中でも福音派的な立場では、「救いはキリストを信じるか否かにかかっているのだから、ためらわずに語りなさい」と強調されることもあります。この強調は、聖書の命令を真剣に受け止めようとする姿勢を示すようであり、力強く感じられます。

しかし現実には、キリスト教徒にあっても、迷いと躊躇いと逡巡があるのかもしれません。

語ることが一つの愛であると同時に、語らないことにも一つの愛が有り得る場合があるようにも思われるのです。


ふと考えさせられること

あるいは、キリスト信仰の場面に限らずとも、このような場面は、現実のいたるところに存在しているとも考えられます。

街角でも、旅先でも、あるいは身近な人間関係の中でも、私たちにとっての真実を告げる機会は私たちの目の前に現れます。

しかし、告げるべきか、沈黙すべきか──その判断に迷い、結局語られずに過ぎていく瞬間は少なくないことでしょう。

そのたびに、私たちは自らの内にある真実を問われるようです。
「なぜ語らなかったのか」
「語らないということに意味はあったのか」
「語ることと語らないことの間に、どんな摂理が存在しているのか」

簡単に答えは出ないかもしれません。
しかし、このような問いにこそ、私たちに真実を深く考えさせる契機があるのかもしれません。

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