信仰において教会を利用するという考え方について
※この記事は思索的なものであり、特定の立場を断定するものではありません。あくまで理想的な考え方が含まれているものです。信教・思想・良心の自由を尊重しつつお読みください。
1. 無所属的な信仰の可能性
現代社会において、「無教会」あるいは「無所属」の信仰者と呼ばれる人々が、ほんの少しずつ増えていると言われることもあります。
教会に属さないとしても、キリストの贖罪と復活を信じる信仰によって救われる。その信仰理解は、新約聖書の記述において根拠を見いだすことができるとも考えられます。
なぜなら、新約聖書においては、神の救いは信仰に基づくとされているからです。
このような立場に立つ人々は、形式よりも内面を重んじ、キリストへの直接的な信仰を求める傾向があるようにも思われます。
その人々の信仰は、社会の中で孤立するとしても真実に神を慕う心の現れではないかとも考えられるでしょう。
それは制度を超えて生きる信仰の一つの姿であり、初代教会の素朴な信仰にも通じるもののように思われます。
2. 教会の視点と「交わり」の意義
一方で、教会の側から見るとするならば、一人で信仰を守り続けることは現実的に容易ではないと思われることでしょう。
人は孤立するとき、心が弱くなりがちになる存在であると言えます。
困難や疑問に直面したとき、共に支え合う仲間がいることは、何よりも大きな力になるように思われます。
もともと「教会(エクレシア)」という言葉は、「召し集められた者たち」という意味を持つと言います。
それは建物ではなく、神に呼び集められた人々の共同体を指していたとされます。
そのため教会は、神と人、人と人とを結ぶ交わりの場であり、互いに信仰を育て合う関係性そのものと考えられるのです。
3. 「利用する」という現実的な視点
それでもなお、現代に生きる私たちは、信仰を保ちながら社会の中で働き、生活していかなければなりません。
そうした現実の中で、教会を「利用する」という視点は決して不遜なものではなく、むしろ賢明な考え方とも言えるように思われます。
信仰者が真にキリストに従おうとするならば、「福音を伝える」という使命を避けて通ることはできないようにも思われます。
福音書によるとすれば、復活のキリストが弟子たちに「行って、すべての民をわたしの弟子としなさい」(マタイ28:19)と言ったことから、信仰は内面だけでなく、外に向かって働きかけるものであるとも考えることが可能でしょう。
しかし、その働きを一人でこなすのは容易なものではありません。
伝道・教育・奉仕、もしこれらのことを継続的に行うとするならば、やはり組織的な協力と支援が必要になるように思われます。
その意味において、教会に所属することは「信仰を社会に広げるための現実的な手段」として有効であると考えられるのです。
4. 教会の三つの働き――伝える・育てる・守る
教会の存在意義は、大きく分けて三つあると言えるかもしれません。
それは、「教えを伝える」「信仰を育てる」「信仰を守る」ことです。
まず教会は、まだ信仰を知らない人々に福音を伝える場です。
次に、信じた人々が、信仰において成長できるよう育てる場でもあります。
そして、弱った心を支え、倒れそうな人を包み込む守りの場であるとも考えることができるでしょう。
(※もちろん現代においては、信教の自由を保障した上において。)
この三つの働きが揃うとき、教会は「キリストの体」として生きる存在となるように思われます。
現実の教会は、決して完璧な組織ではないものと思われますが、その不完全さの中でこそ、互いに仕え合う姿勢が意味を持つものと思われます。
5. 教会は「仕える存在」である
さらに言うならば、教会とは、信徒のために仕える存在であるとも考えられていることでしょう。
教会は、信徒のためならば、利用されることも望むと言ってよいのかもしれません。
それは、教会が謙遜を旨とする共同体だからと言えることでしょう。
キリストご自身が「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マルコ福音書10:45)と言われたように、教会もまた、信徒に仕えるために存在していると考えることができます。
祈りの場として、学びの場として、あるいは心を休める場として、人々が教会を「利用」することは、むしろ自然なかたちであるとも言えるでしょう。
教会が利用されることを恐れず、むしろそれを受け止められるとき、そこにキリストの精神が最も純粋に生きているようにも思われます。
信徒が信仰を深めるために教会を用いるとするならば、それは教会の本来の使命が果たされている証拠であるように思われます。
この「仕える教会」「用いられる教会」こそ、キリストの姿勢を地上にあらわす真の姿であるように感じられるのです。
6. 「楽しい場所」であることが望ましい
では、どうすれば人が自然に教会に集まるようになるのでしょうか。
人は重苦しい場所よりも、楽しい場所を求めるものです。
教会は、「喜びと平安を分かち合う場所」であることが望ましいと言えるのでしょう。
笑顔や音楽、祈りや会話、奉仕や感謝――それらすべてが、恵みのあらわれであると言えるのでしょう。
楽しい教会とは、信仰を軽くすることではなく、喜びを通して神を感じる空間であると言えるのかもしれません。
7. おわりに
本来、信仰と教会制度は対立するものではありません。
信仰は内なる霊の働きであり、教会はその働きを支える存在であると考えられます。
だからこそ、信徒が教会を利用することも、本来としては、悪いことではないように思われます。
教会は、信徒を支配するためではなく、支えるために存在するものとも言えることでしょう。
信徒は、教会に従うためではなく、教会を通してキリストを信じるために集うものと考えられます。
こうして見ると、「教会を利用する」という考え方は、決して軽んじる表現ではないようにも思われます。
信仰の現実を知って、制度を生かし、支え合うという、信仰者の姿勢であるように思われるのです。
まとめ
教会とは、教えを伝える場であり、信仰を守る場であり、信仰を分かち合う場です。
そして、教会とは、信徒に仕える場です。
信徒が教会を利用し、教会がそれを受け止められるとき、そこにキリストの恵みが満ちあふれているのではないかと考えられるのです。
もっとも、ここで述べたことは、あくまで理想的な考え方にすぎないようにも思われます。
現実の教会には課題もあり、人と人との関係には限界もあります。
ここでの思索が、信仰を考える一つの参考になれば幸いです。
