福音派的な前提を徹底するとするならば、なぜカトリック的な教会像に近づくのか
――思考実験としての「信仰と社会」と、日本の現実について
※この記事は、特定の教派を批判・擁護することを目的としたものではありません。福音派的なキリスト教の前提を、あくまで論理的な思考実験として最後まで推し進めた場合、どのような教会像が立ち上がるのかを考察する試論です。信教・思想・良心の自由を最大限に尊重した上でお読みください。
はじめに
前回の記事では、ある福音派的な教会において語られる信仰理解について、できるだけ冷静に考察を試みました。この記事はその続編として、ある福音派的なキリスト教が前提としていると考えられる信仰理解をいったんそのまま受け取り、それを社会全体に当てはめたとき、どのような教会像が論理的に導かれるのかを思考実験として検討するものです。
この記事では、福音派的な前提を否定したり修正したりすることを目的とはせずに、むしろそれを最後まで真面目に考えた場合、どのような構造的な帰結に至るのかを明らかにしたいと考えています。
1.福音派的前提を、改めて整理する
ある福音派的なキリスト教の信仰理解には、比較的一貫した前提が見られます。
動画や説教を注意深く聞いていくと、それらは次の三点に集約できるようにも思われます。
キリストの福音は、できるだけ多くの人、可能であるならばすべての人が信じるのが望ましい。
そのように信じる者は、教会という共同体に集うべきである。
その集まりは、週に一度程度は想定されるものであるが、日曜日に限る必然性はない。
これらはいずれも、福音派的な内部においては決して極端な主張ではなく、むしろ自然な前提として共有されているもののようにも思われます。
この記事では、これらの前提を一切割り引くことなく、そのまま社会全体に適用した場合、どのような教会像が論理的に導かれるのかを考えていきます。
2.前提を「社会全体」に適用したら、何が起きるのか
では、これらの前提を、個人の信仰理解にとどめず、社会設計のレベルにまで拡張しようとするとき、どのような問題が生じるのでしょうか。
もし仮に、
全ての人が教会に集まる
週に一度、礼拝に参加する
という状態を、真面目に想定するならば、教会はもはや「信仰の合う人が集まる場所」では済まなくなるものと言えます。
教会は、
どこに建てられるべきか
どれほどの人数を収容すべきか
いつ、どの時間帯に集まるべきか
といった、現実的な設計問題に直面することになると言えるでしょう。
3.「市の中心に一つの巨大教会」という案の限界
まず思いつくのは、「市の中心に、一つの大きな教会を建てる」というような案でしょう。しかし、これを冷静に考えると、すぐに限界が見えてきます。
全市民を一度に収容することは不可能である
そのため、曜日や時間帯で分割する必要がある
人口が多い都市ほど、超巨大なホールが必要になる
これは地方都市ならまだしも、大都市になるほど現実性を失っていきます。人が増えれば増えるほど、一極集中型の教会モデルは構造的に破綻しやすくなるように考えられるのです。
4.論理的に導かれる「地域分散型の教会」
そこで、より合理的な解として浮かび上がるのが、「教会を地域ごとに分散配置する」というような発想です。
これは日本で言えば、
小学校
公民館
地域センター
のような設計思想に近いものだと言えるでしょう。これらの施設は、
地域住民の生活圏の中心に置かれ
過度に巨大化せず
体育館など、大人数が集まれる空間を持つ
という特徴を備えています。論理的に考えるとするならば、教会もまた、地域ごとの生活圏に根差すべきであるという結論に至るのは、極めて自然なものであると考えられます。
5.さらに立ちはだかる「曜日問題」
しかし、ここでさらに重大な現実が立ちはだかります。
それは、
人によって休みの曜日が異なる
不定休の人も多い
日曜日に必ず休めるとは限らない
という、現代社会の労働構造です。この現実を無視すると、「全ての人が教会に集まる」という前提そのものが、制度的に成立しなくなってしまいます。
6.曜日問題を調停するための二つの案
この問題を論理的に調停する方法としては、少なくとも二つの案を考えることができます。
案①:曜日ごとに別の教会共同体を作る
日曜休みの人の教会
水曜休みの人の教会
不定休の人の教会
というように、生活リズムごとに信仰の共同体を分ける考え方です。
案②:一つの地域教会で、複数曜日に礼拝を行う
日曜日だけでなく
月火水木金土にも
短時間の礼拝を設定する
この方法であれば、理屈の上では、すべての人の休みをカバーできることになると言えます。
7.思考実験の果てに見えてくる「終局像」
ここまで思考を徹底していくと、ある事実に気づかされます。この論理の先にあるのは、「全人口が、何らかの形で教会の集まりに参加する社会」という、きわめて壮大なビジョンです。
この考え方は、理論的には不可能とは言い切れないものです。しかし、少なくとも現代日本においては、あまりに現実離れしているとも感じられます。
8.日本の現実との距離
現実として、日本における公称のキリスト教徒は約1%であり、その中でも、定期的に教会に通う人はさらに少数という状況があると言えます。
この現実を踏まえるならば、「全ての人が教会に参加する」という構想は、現時点において、理想として語ることはできても、現実としては成立していないと考えざるを得ないようにも思われることでしょう。
9.ここで現れる「意外な一致」
しかし、ここで、とても興味深い事実が浮かび上がります。
この思考実験によって導かれた教会像は、実はすでに歴史の中で具体化されている教会構造と、極めてよく似ているのです。それが、カトリック教会の在り方です。
10.カトリック教会との構造的類似
カトリック教会は伝統的に、教区・小教区という地域単位を重視し、生活圏ごとに教会を配置し、日曜ミサだけでなく、平日ミサなどを実践してきたと考えることもできるでしょう。
これは、不定休の人、忙しい労働者、日曜日に来られない人を現実的に包摂しようとする仕組みであると考えることができます。
ここで導かれた「地域分散+複数回の礼拝」という構造は、カトリック教会が歴史の中で実装してきた形と、少なくとも発想として驚くほど近いように思われます。
11.なぜ福音派的な論理は、カトリックの在り方に近づくのか
福音派的な姿勢は、信仰上の分類においては、個人の回心、信仰告白、聖書中心を強調するものです。
しかし同時に、すべての人が信じるべきである、信じる者は集まるべきであるというような前提を、もしも社会全体に実装しようとすると、個人主義だけでは支えきれず、空間・時間・制度を整備せざるを得なくなると言えます。
その結果として、歴史的に「万人への対応」を試みてきた教会構造、すなわちカトリック的教会像に収束していくという逆説が生まれると考えられるのです。
これは、カトリックが正しい、プロテスタント福音派が間違っているというような話ではありません。
論理を徹底しようとした結果、歴史的な構造と一致してしまうという、純粋に構造的な問題です。
12.それでも残る、日本社会の前提
とはいえ、日本社会には、
信教の自由が保障されている
何を信じるかは各人の自由である
という揺るがない前提があると言えます。そのため、少なくとも現在においては、現実的には、
信じる人は信じる
信じたいと願う人が進む
という結論にしか到達しないとも言えるでしょう。そして、これは、福音派的な理想と緊張関係を持ちつつも、現代日本において避けられない現実だと言えることでしょう。
13.おわりに
この記事で行ったのは、
福音派的な前提を否定することではなく
その前提を、最後まで真面目に考えること
でした。その結果として、
理想と現実の乖離
教会構造の必然
カトリック教会との構造的類似
が浮かび上がってきました。この思考は、「どの教派が正しいのか」というようなことを決めるためのものではありません。
むしろ、私たちは、どこまで真面目に「多くの人が信じる」という言葉を考えているのかという問いを、突きつけているものだとも思います。
あとがき
この記事を読み終えたとき、読者の中には、どこか少しおかしなものを見ているような感覚を覚える方もいるかもしれません。話が現実離れしているように感じられたり、推論が大きく飛躍しているように思われたりする可能性もあると思います。
しかし、この記事で行った考察は、奇抜な発想や意図的な皮肉ではなく、福音派的なキリスト教の前提をそのまま受け取り、それをできる限り真面目に、論理的に押し進めた結果にすぎません。途中で人口や地域、曜日、労働形態といった現実的な制約が現れましたが、それらは思考を歪める要素ではなく、むしろ避けて通れない前提条件だったとも考えられます。
もし、この推論や結論のどこかに違和感があるとすれば、それは論理的な思考が誤っているというよりも、信仰の前提、あるいはそれを置いている社会の側、もしくはその両方に、何らかのずれや無理が含まれている可能性もあるのではないだろうか、そのようにも感じられるのです。
この記事は、どの信仰、教派が正しいのかということを決めるためのものではありません。ただ、「すべての人が信じることが望ましい」という言葉を、どこまで真面目に受け取って考えているのか。その問いを、共有するための試みでした。
