「身体の一部としての心」を認識する - メンタル疾患の適切な位置付け
シロイのメンバーシップ「離脱して生きる: 少数者のための幸福と自己表現のレシピ」の第4回です。初回から創作の話題とメンタルヘルスの話題を交互に取り上げてきましたが、今回は後者で、第2回のお話の続きになります。
前回のお話では、メンタル疾患における「専門家の無力さ」がどのような構造によって生まれているのかを考えました。
まず、前回の記事のおさらいから。
精神科医は病気の治療を専門としており、平均的に見れば、人々の実生活の困りごとや職業上のキャリアの話題に詳しいわけでは全然ありません。「医師の本来の姿」としても、医学という分野で証拠(エビデンス)を持って客観的に語れる範囲から逸脱することはできないので、それはやむを得ないものでもあるというのが前回の指摘でした。
つまり、病気の当事者である私たちが「のっぴきならないもの」として抱えている悩みや苦しみや困りごとの大部分は、最初から医師の力でどうにかできる範囲の外にあるということです。
根本的には、精神科医というのは外科医や内科医と大差ないものとして考えておくべきでしょう。私たちの置かれた困難について、彼らが「深く理解してくれる」と思ってしまえば、おそらくその期待は早い段階で裏切られます。生理現象としての症状を緩和してくれる薬は出してくれるかもしれませんが、我々自身が突きつけられた「この社会でどうにか生きていける方法を探す」という困難な課題を考えたとき、そこに期待できる助力はわずかなものです。
期待が不適切であるとき、それは必ず無用なストレスや失望を生み出すものとなります。病気の話題に限らず、恋愛の話でもキャリアの話でもそうです。よって、この期待は取り下げておく必要があります。
以上が前回の趣旨でしたが、これらの視点を踏まえた上で、今回お伝えしたい内容は2つあります。
叶わない期待を取り下げるために、「お医者さんがやってくれる仕事」の範囲を今一度明確にする
病気と「悩み」を誤って混同しないために、「身体の一部としての心」という考え方を理解する
どちらのお話も、切り分けが曖昧であるがゆえに余計な苦しみを生み出してしまっている要素に適切な立ち位置を与えることを意図しています。1点目はそのまま前回の話の続きですが、2点目はまた別の新しい視点になります。
なお、今回のお話は前回記事から続く2回シリーズとなっていますが、既に触れた「専門的で客観的な情報だけでは解決されそうもない、あなた自身の人生という困難な現実」については、来月以降の記事でも再び注目していくつもりです。
というか、「客観的には解決されない課題」というのはシロイの扱うテーマ全体の要約みたいなもので、私の書くものの大半には既にそういう視点が含まれています。書籍でも通常記事でもいつもその手の話題を考えていますし、今後のメンバーシップ記事としても、もっともっと深いところまで議論を進めたいと思っています。
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では、まずは今回のお話の1点目、「お医者さんの担当範囲を明確にする」について。
一般に、精神科医が行ってくれるものとして期待できるのは、主に以下の3点になると思います。
専門家による「診断」という形で、あなたの困りごとに名前を付けること
適切な薬を出し、身体と「身体の一部としての心」に対する治療を行うこと
診断について書類上の証明を行い、会社に提出する診断書だけでなく、自立支援医療や障害者手帳、障害年金といった福祉サービスへと繋げていくこと
これを書き出したいちばんの目的は、今後あなた自身の深い失望として出てくるかもしれない「この程度のことしかしてくれないのか」という感情に対する諦めの必要性を冷静に、予防的に認識しておくためです。
医療の現場にいる人々というのは、おそらく患者さんのために「できるだけのことはしたい」と考えており、実際にそのための努力を払っているケースのほうが多いと思いますが、それでもこの限界は私たち当事者にとってかなり「不十分なもの」として映るはずです。
メンタル疾患の話題の中で、「主治医との相性」というのは頻出トピックであり、「転院したほうがいいのだろうか」という悩みもありふれたものでしょう。これは「話をきちんと聴いてくれるか」などの医師のキャラクター面によるものもありますし、多剤処方のような治療方針に関して出てくることもあります。
これに関して一律に「こういう医者はダメだ」ということは言えませんが、少なくとも「人として信頼でき、心強く感じる」といった印象の主治医に出会うことができたなら、それは極めて幸運なめぐり合わせだと言ってよいでしょう。病気が理由のない偶然であったように、理由のない偶然というのはときどきプラスの側にも起こります。しかし、その幸運は平均的には「期待できないもの」に分類されます。
以上のような状況への対応として、前回の記事では「別の誰かに助けを求める」という表現を使いました。これはプライベートの人間関係に見つかるかもしれないし、あるいは職場にも意外な理解者がいるかもしれないし、福祉サービスが多少なりとも力になってくれるケースもあります。細かいアドバイスは今後の記事で継続的にお伝えしていくつもりですが、実際、あなたを助けてくれる人間というのはこの世のあちこちに存在しているんです。ただし、そのような人々に関しても、自分の悩みごとや困りごとの全部を理解して受け止めてくれるかもしれないと期待すれば、やはりそれは裏切られます。
主治医の限界という話から引き出されたのは、「公的か私的かを問わず、どのような助けもそれ単体ではあなたにとって不十分なものと映る」という指摘です。そうした状況の中で、私たちは「あるもの全部の組み合わせ」によって目の前の困難をなんとかしていくしかありません。これが今回お伝えしたかった1点目のポイントになります。
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2点目にお伝えしたい内容は、「身体の一部としての心」という考え方についてでした。
一例として、うつ病における「気分の落ち込み」というのは典型的な症状の一つとされていますが、別の見方をすれば、実はこれを「症状」として扱うのは不適切だと言わなければならない側面がけっこうなウェイトで存在しています。問題への理解が不適切なとき、それは問題の解決を遠ざけます。
今から行いたい指摘の要点は、私たちは心の健康に苦しんでいるのではなく、もっと広い意味での現実の状況に苦しんでいるのだという点にあります。心というのも私たち自身の現実の一部ですが、当たり前の話として、問題の一部は問題の全体を説明するものではないので、一部の要因だけを見て全体の解決策を引き出すということもできません。
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