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【40歳過ぎてシンガーソングライターに その1】|創作大賞|オールカテゴリ部門|ノンフィクション

【第一章|訳あり過ぎる誕生秘話と生い立ち】

私は40歳を過ぎてから、友人の言葉をきっかけに
シンガーソングライターとして活動を始めるようになり

「あなたの心に音楽というサプリメントを」
そんな思いをテーマに、歌を届けています


けれど、ここへ辿り着くまでには
自分でも驚くほど色々な出来事がありました

その一つ一つを少し深掘りして
これまでの人生について綴ってみようと思います

かなり長くなってしまったので
何章かに分けて少しずつ書いていこうと思いますが

こんな人もいるんだ〜と興味を持っていただいたり
同じような境遇、体験をされてきた方に
少しでも寄り添うことができたらと思います

最後まで読んでいただけるとうれしいです

*****


1978年に3人兄妹の末っ子として
島根県で生まれる

と言うと

「へぇ~島根の人なんだぁ」と言われる

でも実際に島根にいたのは4歳までで

両親の離婚を期に
当時、母の親戚が住んでいたので
名古屋へ引っ越して来ました

「じゃぁ、両親は島根の人なの?」
「実家は島根?」
と聞かれる

答えは「ノー」

自己紹介はなるべく手短に
シンプルに済ませたいけれど

両親は島根の人じゃないし、実家が島根でもない

両親は秋田県で生まれ育った

結婚を両親に反対され、駆け落ちして秋田から島根に来た
と聞かされている


父は小さい頃に養子に出されていたらしい…
ということを知ったのは
随分と大人になってからだけど


島根にいた頃は、父も母も働いていたので

私は(お父さんの養母である)おばあちゃんが大好で

おばあちゃんに甘えて育った

おばあちゃんとの思い出は
紫色の蓋のボトルに入った
なんとも昭和懐かしい匂いの化粧水や
ミルク色の乳液を
私のホッペタにピチャピチャと付けてくれたこと

初夏の夜には、おばあちゃんの部屋で

障子越しに蛍の光を見せてくれたこと

お砂糖をたっぷり入れたお鍋で、いちごジャムを作ってくれたり

当時、汲み取り式トイレ(いわゆるボットン便所)に
落ちてしまった私の
両手を引っ張って、助け出してくれたり…

優しいおばあちゃんとの思い出を今でも覚えている

そんなおばあちゃんとも離れ
1度だけ名古屋に会いに来てくれたことがあったが
それからまた会えなくなってしまった



*****

名古屋に来てから住むようになったのは
都会の雑居ビル

昔から、崩れてしまいそうにボロボロで
大都会の中心地とは思えないほど
家賃も安かった

家のトイレのドアの上には
秋田県ならではのナマハゲの赤鬼と青鬼の
泣く子もチビるくらい恐怖な形相のお面が飾ってあり
夜は1人でトイレに行くのが怖くてたまらなかった


赤みそなどの名古屋めし文化ではなく
母が作ってくれた料理は

すき焼きには短冊切にした大根を入れるという
島根文化があったり
きりたんぽ鍋や、いぶりがっこ、ハタハタ寿司などの
秋田の食文化だったり…


異文化交流極まりない我が家での言語は
「標準語」だった
(お母さん名古屋弁喋れないからね)


母は時々、実家から電話がかかってくると

突然、秋田弁のすごい訛りでしゃべり出すから
驚きながらも、一瞬で変貌するそのギャップがおかしくて笑った

島根での自然あふれるのどかな風景から一変して

名古屋へ来てから私が育った、その街は

錦3丁目

「華の錦三」とも呼ばれる
スナックやキャバレーなどがひしめく歓楽街


バブル時代真っ只中


毎晩、酔っ払い同士の喧嘩や
強盗事件などで警察が来ては

黄色いデンジャーテープを張られるという
なんとも治安の悪い危険な街で

毎晩、途切れないタクシーの行列を5階の窓から眺めていた

*****

4歳上の姉は生まれつき足が不自由で
名古屋へ来てからも足の手術をしたり、入退院を繰り返していて

今思うと仕方ないけれど
母は女手一つで子供3人を育てるのに必死で大変で

姉のことや生活を心配する母の気持ちが捩れてしまい

いちばん小さかった私に対しては、特に当たりがキツく
とてもヒステリックだった


「お姉ちゃんはいいの、あんたは我慢さえしていればいいんだ!」と

いつも我慢を強いられたり

常に他人と比べられて
「あの子はよく頑張ってるけど、あんたはダメだ」と
何から何まで否定されて


小さいながらにすごく悔しくて、悲しくて
いつも母から心配され大事にされ
可愛がられていた姉を羨ましく思い嫉妬していた


当時、放送されていたアニメ「アルプスの少女ハイジ」の
ハイジと自分が重ねて見えて

足の不自由な姉はクララ
ヒステリックに怒る母は
ロッテンマイヤさんみたいだと思って


「おばーちゃーん、島根に帰りたーい!」と

都会の雑居ビルの屋上で

森も海もない立ち並ぶビル群を見ながら

よく一人でこっそり泣いていた



「ピーターパン症候群」とか「サザエさんシンドローム」
なんて言葉を一時期よく耳にしたけれど

私はそんな自分に度々
ハイジが憑依したかのような気持ちになる、この症状を

「アルプスの少女ハイジ現象」と勝手に名付けていた(笑)



「アルプスの少女ハイジ」は
山でヤギ達と楽しく戯れたり
クララが立った!というような感動ストーリーなだけだと
思っている人も多いと思いますが


親や親戚の都合で、ある日突然
アルプスの山奥のおじいさんの元へ置いて行かれたかと思えば

急に、フランクフルトのお屋敷に住む
足の不自由なクララの
話し相手になってあげなさいと連れて行かれたり

大人の都合に振り回されてしまうハイジの
つらく苦しい心情も描かれていたのでした



自由奔放、天真爛漫だったハイジが
「山へ帰りたい」という本心を言えば
クララが傷ついてしまう…

ロッテンマイヤさんに我慢を強いられ
自分の気持ちを押し殺すようになったハイジは

ホームシックが悪化し、夢遊病になってしまう

「ゆうれい騒動」という回のお話で

小さなハイジの心の深い傷がアニメの中で描かれていました


そんなハイジの異変に気がついた大人たち
(クララのお父さんや精神科医)がいて本当に良かったと思いました

*****

島根にいたのは4歳まで、と言うと

「そんな小さいうちのことなんて覚えてないでしょ?」と言われる

でも私は小さな時のことを

今でも生々しいほど、色々と覚えている


・海がわりと近くて、船に乗ってフグの一本釣りをしたこと


・ヤマタノオロチが少し怖かった
 近所の神社のお祭りなんかで見た岩見神楽のこと

・2歳のときに、母の実家の秋田へ行く飛行機の中で
兄から、スチュワーデスさんに
「オレンジジュースまだか?」って言え
と言われて、からかわれたこと


・冬は雪が積もることもあり、二階の窓からツララが垂れ下がっていて
それをポキンと折って、アイスキャンディーのように食べたこと


・幼馴染が家の前の道路で車に跳ねられた瞬間を見たこと
(軽傷で済んだ)


・4歳になってすぐ水疱瘡になって体中に湿疹が出た時のこと


・近所の“川神さんの広場”にあった
 大きな岩場の上でいつも歌って遊んでいて
 仕事帰りのお父さんに、家まで20メートルくらいの距離を
 車に乗せて行ってと泣いてせがんだこと


・おじいちゃんが死んで
 棺の中で目や鼻や耳にも白い綿が詰められてたのを見たこと


・名古屋へ来る前に駅で電車を待つ間に、みんなで銀紙に包まれた
 棒の付いた四角いバニラのアイスを食べたこと

最近のことは、よく忘れるお年頃ですが(笑)

「3つ子の魂100まで」と言うように
自分でも、この記憶はもしかして夢なんじゃないか?
と思うほど、とても鮮明に覚えてる

でもどれも、本当にあったこと

*****

名古屋の都会で育った私の幼少期の遊びと言えば

幼馴染の男の子と、雑居ビルの屋上へ上って

ビルから隣のビルへ、50センチくらいの隙間を飛び移るという

良い子も、良い子じゃなくても、大人も子供も

絶対に真似しちゃいけない危険な遊びだった
(本当に危険なので絶対に真似しないでください!)

遊ぶところもなかったし
街や公園には怪しい人たちがいっぱいだった


実際、当時から近所では
強盗や拳銃による発砲事件などが頻繁に起きて

「事件発生、犯人は凶器を持って逃走中!
近隣の方はご注意ください!」と

パトカーから拡声器で恐怖のアナウンスがあったり
小さい頃から公園やデパートなんかで痴漢にあったり

不審者に声をかけられ誘拐されそうになったり



ここにも書き切れないほど怖い思いもたくさんして

正直よく殺されずに今まで生きてこられたなと思うほど

色んな意味でサバイバルな街でした

*****


10歳上の兄と4歳上の姉、その末っ子として生まれた私


本当は兄と姉の間に、もう1人兄が生まれる予定だったはずが

死産というかたちになってしまい


「兄妹が2人だけでは、もしもどちらかが欠けた時に
残されるのが1人では可哀想だから、どうしても、もう1人産みなさい!」
とおばあちゃんが何度も母に何度も言ったそうで

母は、経済的にも子供2人を育てるだけで精一杯だったから
「本当は要らなかったけど、欲しくなかったけど
仕方なくアンタを産んだの」と…

そんな話を小学校高学年の頃に母から聞いた

当時、私は小学校でいじめを受けていて
みんなから無視されて
音楽室での授業の時には、私の座ってる席に近づかないようにと
ドーナツの輪のようにしてみんなが私を遠ざけて座った

休み時間に、教室で1人で学級日誌を書いているときに
担任の先生がやって来て
「いじめられてるのか?無視されてるのか?」と聞いて来てくれた
何も言えず、そっと頷くことしかできなかった

「せっかくお天気もいいんだ、1人でもいいから
外へ行って遊んで来なさい」と言われた

やっと大人が気づいてくれたと涙が出てきた
涙を拭いながら
うさぎ小屋の木陰で過ごして、また教室へと戻っていった

ある日、給食で私の席にだけ牛乳や果物と
お茶などを配ってもらえなくて困っていると

さすがに担任の先生も心配して
いじめている子たちを前に呼んで立たせて
「なんで、あの子の所にだけ配らないんだ?おかしいだろう?」と
事の重大さを指摘して、みんなの前で叱った

でもそうすると、いじめている子たちは
先生の前では、反省しているように見せかけて
次の日から、いじめはさらにエスカレートしていった

当時ソフトボール部に入っていて
塁間キャッチボールという
ホームからファースト、セカンド、サード、そしてまたホームへと
四角くキャッチボールをする練習の時に
私はセカンドにいたのだけれど
顧問の先生が見ていない時に
私は飛ばされて、三角にキャッチボールが繰り広げられて

かと思えば、先生が来ると
急に私にもボールが投げられて来たり

これでは、みんなの練習の邪魔になってしまうと思って
退部届けを出したら、事情を知らない顧問の先生から
「意気地がねえなぁ、ちゃんと続けろよ!」と叱られた

クラスで、いじめているグループではない子たちが
「私たちは気にしないから、一緒に喋ろう」と言ってくれて
すごくうれしかったけれど
私と喋ると、その子も次の日からいじめに遭ってしまう
ということがあったので

「いいの」と言って
もうこれ以上、誰も私に関わって傷ついて欲しいと思って
学校でもどこにも自分の居場所が無かった


それも母には心配かけちゃいけないと思い言えなかった

風邪をひいて2日ほど学校を休むと
担任の先生が心配して、急遽、家庭訪問しに来てくれて
母に私がいじめに遭ってることを伝えられた

先生が帰り、母から
「学校でいじめに遭ってることを
何でお母さんに言わなかったんだ?
知らなくて、私が先生の前で恥をかいただろう‼︎」
と叱られた

そんなに私は、この世界に生まれてきて
みんなにとって邪魔な存在なのか?
迷惑をかけてしまうだけの存在なのか?

その頃から、そんな「自分の存在」について
悲観的に色々と考えはじめてしまうようになっていった

もし、その2番目の兄が無事に生まれていたら…
もしおばあちゃんが母に何度も産みなさいと言っていなかったら…
私は生まれてなかったのかな?という複雑な心境

私は本当に生まれてきて良かったんだろうか?

本当は、死産した兄が生まれる方が良かったのではないだろうか?

そんな疑問に長年悩みながら生きてきてしまった

それでも、現実として

私は無事に生まれてきて、今も生きている


それが良いとか悪いとか、正解とかではなく

「ただ、そういうこと」として
受け入れられるようになるまでには
長い年月がかかった


「兄妹が2人だと、どちらかが欠けた時に
残されるのが一人では可哀想だから…」
というおばあちゃんの言葉

私が18歳の時に
いちばん上の兄が、ある日突然亡くなってしまい

おばあちゃんのあの言葉が正夢か予言かのように現実になってしまった

ブレーカーが落ちてしまったかのような
灰色の世界になったような気持ちだった

あの日から、ずっと
私は亡くなった2番目の兄の代わりに生まれてきたのだと思い
父親の代わりをして来てくれた
1番上の兄の代わりを生きようとしてきてしまった

第二章へつづく…

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