〈私〉と〈私たち〉をつなぐもの【思想記#4】
今回は「個人と社会あるいは政治」の問題を考えてみたいと思う。
1.個人主義の時代
現代は個人主義の時代である。
そして、この個人主義の原動力になったのは、近代が始まって以来の「平等化」の運動である。
19世紀フランスの政治思想家トクヴィルが指摘しているように、平等化は人々の平等・不平等意識を覚醒させた。
今まで身分の違う人間は同じ人類ではなかったわけだが、人類平等の理念が人々を伝統社会の不平等の是正に向かわせたのである。
このように伝統社会の構造は平等化によって解体されていった。
伝統社会は神や自然などの人間を超越した価値によって人間を規定していたわけであるが、伝統社会の解体とともに人間の外部の価値の源泉は無くなった。
この帰結として、あらゆる価値は人間のうちに求められるようになったのである。
これはあらゆる選択の根拠が自分自身の価値観に求められる時代の到来を意味した。
この時代は、私があらゆる可能性に開かれている自由で望ましい時代である。
この時代の原理に基づけば、誰もが政治家になりうるし、自分次第で億万長者になることすら可能なのである。
しかし、もう一つの側面にも目を向ける必要がある。
この時代は、あらゆる人が自分自身の内面的な価値観に向き合うことを強要される内省の時代でもあるのだ。
「自分探し」という言葉に象徴されるように、人々は自分の内側から価値を引き出すことに必死だ。そんなところを探しても何もないかもしれないにも関わらずである。
この時代の人々にとって最も恐ろしいのは、価値観が無い人だと周りの人に思われてしまうことだろう。
この不安は人々をインスタントな価値観の妄信に向かわせる。周りの人へのアピールとして、自ら価値観を妄信するのである。
そして、純粋に周りの人へのアピールであれば実際に妄信する必要はないのであるが、信じていないもので人を騙すというのは心の負担が大きいため、自己防衛的に妄信しているのではないかと推測している。
(もちろん、全員がインスタントな価値観を妄信しているわけではなくて、自分の内面の価値観を手触りをもって感じて、理解しようとしている人もいるだろう。ただ、割合の問題である。)
このような、誰でも何にでもなりうるし、内省強要的でもあるし、持たざる人と見なされる不安に溢れている時代において、いかにして民主主義的な社会は成り立つのか、言い換えれば、どうすれば〈私〉は〈私たち〉でいられるのかという問題がある。
2.〈私〉と〈私たち〉をつなぐもの
東京大学の政治思想史の教授である宇野重規さんの著書「〈私〉時代のデモクラシー」において、ジーグムント・バウマンの『政治の発見』という本が紹介されている。
バウマンは、(中略)本のなかで、公的な問題と私的問題との間に適切な架け橋がないことを問題にしています。私的な問題を公的な問題へと置きかえるような、また逆に、私的な問題のなかに公的な問題を識別しその位置を正確に突き止めるような、容易で明白な方法が存在しないかぎり、社会には集団的な無気力が支配するとバウマンはいいます。
このバウマンの指摘は、先ほどの「どうすれば〈私〉は〈私たち〉でいられるのか」という問題と課題を共有している。
ここで、〈私〉に対応するのが私的な問題であり、〈私たち〉に対応するのが公的な問題である。
つまり、〈私〉と〈私たち〉の間に適切な架け橋がないことを問題にし、それらの間を取り持つような、相互に変換できるような方法が必要であると彼は考えているのである。
それがなければ、〈私たち〉の間に集団的な無気力が充満してしまう。
では、バウマンはどのように〈私〉と〈私たち〉の間を架橋しようとしたのだろうか?
彼は古代ギリシアのポリスを引き合いに出す。
古代ギリシアにおいては、ポリス(都市国家)の全構成員にかかわる問題が取り扱われ決定される領域としてのエクレシア(公的領域)と、逆に家事や家政がなされる場所としてのオイコス(私的領域)とが厳密に区分されたといいます。このこと自体はよく知られていることですが、バウマンが強調するのは、その間にもう一つの領域、いわば、「私的/公的領域」としてのアゴラ(広場)が存在したということです。
バウマンはこのアゴラという中間領域こそが民主主義社会を機能させるために重要であると考えた。
宇野さんがこの本で様々な角度から説明を試みている通り、現代の日本社会においてはこの中間領域を担ってきた社会集団(伝統的な企業や組合など)の解体が進んでいる。
その結果として、〈私〉と〈私たち〉、あるいは〈私〉と「政治」の間の溝は深まり続けている。
「〈私〉時代のデモクラシー」は、2010年の本であるため、当然現在のインターネット上の言論環境などは議論の材料として含まれていない。
あえて、それを含めて検討するとすれば、現時点でインターネット上の言論空間はアゴラ(中間領域)たりえていないというのが現実だろう。
むしろ、インターネット空間の冷笑的で分断的な空気というのは、社会に充満する集団的な無気力そのものであるとさえ言えるかもしれない。
最後に、この〈私〉と「政治」の分断に対して、どのように適切な架け橋を作っていくべきかについて現時点での考えを述べてみたい。
この案は各人が自分のうちにある価値観と向き合うというストイックな方法である。
この案の狙いは社会に充満する集団的な無気力の自己増殖サイクルを断ち切ることにある。
ある人が自分のうちにある価値観と向き合って、その価値観に軸足を置けたならば、その人が社会の空気に影響を受ける割合はより少なくなる。そうなれば、この社会に広がる集団的な無気力は徐々に力を失っていくだろう。
そうして、自分の価値観をある程度理解した〈私〉は、〈私たち〉のことについても意見を持てるようになり、議論ができるようになるのではないかと考えている。
これは赤ちゃんの首が座ると、3次元的な空間認知能力が高まるのと同じことだと思う。
この案は個人が取り組むべきことであり、私がいま目指しているところでもある。
では具体的にどうすれば、自分のうちにある価値観と向き合うことができるのかという点については、また回を改めて検討を重ねていきたい。
ともかくも各人が自分のうちにある価値観と向き合うというのが必要であると私は思う。
〈私〉と「政治」、〈私〉と〈私たち〉の分断に対して、いかにして適切に架橋していくかという問題は今後も引き続き考えを深めていきたい。
最後まで読んで頂いて本当にありがとうございました。
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