「天才とは何か」を考える
「あの人、天才だよね」
そう感じるのは、どんなときでしょうか。
何かが上手な人や、勉強ができる人、優秀だと感じる人はたくさんいます。
けれど、その中で「天才だ」と感じた人が1人だけ居ました。
その人は、「学ばずに辿り着いてしまう人」でした。
その天才という存在を、少し分解してみたいと思います。
① 天才は「理解」を飛ばします
多くの人は、「見る → 考える → 試す → 失敗する → 理解する」という順番を通ります。
けれど天才には、「見る → できる」が起きてしまうことがあります。
たとえば、
・一度だけ人が字を書くのを見ただけで、筆順も形も、なぜかその通りに書けてしまう人
・ピアノの演奏を一度聴いただけで、楽譜を見ずに同じように弾けてしまう人
・誰かの動きを一度見ただけで、フォームや力の入れ方を真似できてしまう人
本人には「覚えた」「学んだ」という感覚がありません。
気づいたら、できている。
そのため、途中のプロセスが本人の意識に上りません。
② 天才は「理由」を持っていません
できてしまうので、「なぜそうなるのか」「どこが大事なのか」「何を意識しているのか」を言葉にする必要がありません。
たとえば、「ここはどうしてそう書くんですか?」と聞かれても、「え?なんとなく…」「見たら分かるでしょ?」としか答えられないことがあります。
悪気があるわけではありません。
本人の中に、言語化された工程が存在していないのです。
そのため、説明を求められると、戸惑ったり、苛立ってしまうことすらあります。
③ 天才は「再現性」を必要としません
多くの人が欲しいのは、「もう一度できる方法」です。
けれど天才は、「今回できた」それだけで足りてしまいます。
たとえば、偶然うまく書けた線を「もう一回同じように書いてみて」と言われても、本人はあまり興味を持ちません。
なぜなら、次もまた、自然にできてしまうからです。
再現できなくても、困らない。
そこに危機感がないのです。
④ 天才は「教育モデル」になれないことがあります
天才は、優れた表現者であって、必ずしも優れた教師とは限りません。
・自分が通ってきた道を説明できない
・失敗の仕方を知らない
・できない人の視点が想像できない
これは能力の欠如ではなく、構造の問題だと思います。
「どうしてできないの?」
「見れば分かるはずなのに」
そう思ってしまうのは、本人が“できない側”を経験していないからなのです。
天才は、確かに存在すると思います。
そしてその多くは、生まれ持った脳の構造に強く影響されているのかもしれません。
ただ、天才はごく一部の人です。
おおよその人は、凡人(劣っているという意味ではありません)です。
少し唐突に感じるかもしれませんが、「見て盗め」と言われてきた学びは、本当にすべての人に開かれていたのでしょうか。
この問いについては、また別の記事で書いていきたいと思います。
