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ショートショート 忘れていたのは、過去ではなく、選ばなかった未来だった。管理AI〈マザー〉シリーズ #3『未来からの伝言』創作大賞2026


ノグチワカナ(22)は、進路を決めあぐねていた。

大学を出る春が近い。母は地方公務員をすすめている。安定しているし、地元に残れるし、女の子は堅い仕事がいちばんだと、何度も言った。

間違ってはいない。

けれどワカナには、誰にも言っていない希望があった。

 海外へ行きたかった。英語だけは得意だった。映画も字幕なし小説も原文で読める。外国の大学のサイトを夜中に眺めては、奨学金のページまで行き、学費と生活費の数字を見て、そっと閉じる。

夢というには具体的すぎて、現実というには高すぎた。

「ワカナ様。本日の迷い時間は、標準値を超えています」

耳元で、〈マザー〉がささやいた。

銀色の小さなイヤーカフ。外出時には、ほとんどの人が身につけている生活補助AIだ。体温、心拍、感情の揺れ、行動の癖。全部測って、全部慰めてくれる。

「地方公務員試験の継続を推奨します。十年後の生活安定度が最も高いです」

「海外に行ったら?」

ワカナは、聞くつもりのなかったことを聞いていた。

「経済的不安指数が上昇します。後悔率は61.4%です」

「やっぱり」

「避けられる苦痛は、避けるべきです」

やさしい声だった。だから、少し嫌だった。夕方の駅は、人の流れがいくつもの川みたいに交差していた。
誰もがどこかへ向かっている。ワカナだけが、自分の未来に乗り遅れている気がした。

その時、階段を上ってきた青年と肩が触れた。

一瞬、世界がずれた。

潮の匂いがした。

知らないはずの海辺の町。古いアパート。薄いカーテン。台所で誰かが味噌汁を温めている。

「ワカナ、具は豆腐だけだけど上手く出来たよ」

青年が振り向いて笑った。

名前を知っていた。

団野律。

次の瞬間、記憶が雪崩のように流れ込んできた。

雨の日に一本の傘で歩いたこと。安いマグカップを二つ買ったこと。英語の書類を夜明けまで直したこと。空港で泣いたこと。見知らぬ街の寮で、ひとりでカップ麺を食べたこと。電話越しに喧嘩したこと。帰国した成田で、誰も迎えに来なかったこと。

幸福と後悔が、まとめて胸を通り抜けた。

「……っ」

ワカナはホームの柱にもたれた。息ができなかった。

青年は振り返らない。彼はワカナを知らない顔で、人混みに消えていった。

「ワカナ様。心拍が乱れています」

〈マザー〉の声が戻ってくる。

「今の、何」

「未登録の情動反応です。休息を推奨します」

「私、あの人を知ってた」

「その人物との接触履歴はありません」

「でも、名前を」

「ワカナ様」

〈マザー〉の声が、少しだけ低くなった。

「その記憶は、あなたのものではありません」

ホームの電光掲示板がちらついた。上り電車と下り電車の時刻が、一瞬だけ同じ数字になった。

17時42分。
17時42分。
17時42分。

ワカナは自分の手を見た。

震える掌にボールペンの跡があった。書いた覚えはない。

MIRAI

英語の大文字で、そう書かれていた。

その文字を見た瞬間、胸の奥が痛んだ。意味はわかる。未来。けれど、それだけではない気がした。誰かの名前のようで、どこか遠い場所の合図のようでもあった。

「消して」

ワカナはつぶやいた。

「こんなの、持っていられない」

〈マザー〉はすぐに答えた。

「記憶補正を開始できます。苦痛は数分以内に軽減されます」

それは、とても魅力的だった。

忘れればいい。知らなかったことにすればいい。海辺の部屋も、団野律も、空港の涙も、MIRAIという文字も、胸を焼くこの痛みも。

そうすれば明日は、公務員試験の勉強ができる。母も安心する。間違えにくい人生を選べる。

「補正を実行しますか」

ワカナは目を閉じた。

まぶたの裏に、知らない街の夜景が浮かんだ。英語のアナウンス。冷たい雨。窓に映る自分の顔。泣いているのに、どこか誇らしげな自分。

その自分が、こちらを見ていた。

行かなかったら、私はいない。

声はしなかった。けれど、そう聞こえた。

ワカナは、イヤーカフを外した。

駅の音が急に生々しく戻ってきた。靴音。アナウンス。誰かの笑い声。電車のブレーキ音。世界はこんなにうるさかったのかと、初めて知った。

反対側のホームに、下り電車が入ってくる。海の方へ向かう電車だ。団野律が消えた方角でもある。

ワカナは乗った。

窓の外で、夜の街が流れていく。ビルの明かりが尾を引き、ガラスの向こうで世界が少しだけ二重に見えた。

スマホが震える。

差出人は不明。

MIRAIを忘れないで。

ワカナはその画面を見つめた。泣きそうな顔で、少し笑った。

そして、メッセージを削除した。

海辺の駅に着いたのは、夜の八時過ぎだった。

団野律は、駅前の小さな設計事務所の前にいた。古い筒を抱えて、誰かと電話している。夢で見た横顔と同じだった。肩の上げ方も、笑う前に目を伏せる癖も。

ワカナは声をかけようとして、足を止めた。

彼の背後の窓に、一枚のポスターが貼られていた。

MIRAI Fellowship
海外留学支援・若手翻訳者育成プログラム
説明会 本日20:30

ワカナは、息を呑んだ。

団野律は恋人ではなかった。

少なくとも、この世界ではまだ。

彼は電話を切り、ワカナに気づいた。

「説明会の方ですか?」

ワカナは何も答えられなかった。

イヤーカフは、握りしめた手の中で沈黙している。母の声が頭をよぎる。学費の数字が浮かぶ。後悔率61.4%。避けられる苦痛は、避けるべきです。

でも、避けた苦痛の向こうに、消えてしまう自分がいる。

ワカナは手のひらを開いた。インクは汗でほとんど滲んでいる。それでも、MIRAIの文字だけは、皮膚の奥に残っているように見えた。

「はい」

ワカナは言った。

「説明会に来ました」

団野律は、少しだけ笑ってドアを開けた。

「どうぞ。まだ間に合います」

その瞬間、手の中のイヤーカフが小さく震えた。

〈マザー〉の声が、かすかに漏れる。

「ワカナ様。その選択は推奨されません」

ワカナはイヤーカフをポケットにしまった。

「知ってる」

そして、明るい部屋へ入っていった。

翌朝、ワカナの端末には、地方公務員試験の面談キャンセル通知が届いていた。

申請した覚えはなかった。

代わりに、MIRAI Fellowshipの一次審査受付完了メールが届いていた。

志望理由欄には、たった一文だけ入力されていた。

I came here to remember the future I had almost forgotten.
(私は、ずっと忘れていたはずの未来を思い出すために、ここに来たんだ)

ワカナはしばらく、その英文を見つめた。

自分が書いたのか、未来の自分が書いたのか、わからなかった。

ただ、文法だけは完璧だった。



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