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【連続小説】『問屋街の次女』 第三章「吊るしの服」

行き先はまだわからない。けれど、明日着る服は決めました。

東京駅から荻窪まで、私は東京をほとんど見ませんでした。
東京の中を走っているのに、窓の外に見えるのは、向かいの人の肩と、吊革をつかんだ腕と、頭の上の広告ばかりでした。広告の女は白い歯を見せ、涼しそうな顔で化粧水の瓶を持っていました。あの女なら、この電車でも汗をかかないのかもしれません。広告の女には、脇の下がないようでした。
「混んでますね」
三浦さんが言いました。
「東京の人は、毎日こんなことをしているんですか」
「だいたい」
「何のために?」
「仕事へ行くためでしょう」
「仕事をする前に、疲れません?」
「疲れます」
「それでも行くんですか」
「行きますね」
東京の人は、たいへん正直でした。
私の鞄は三浦さんが持っていました。人に押されるたび、鞄だけが私から離れたり、近づいたりしました。鞄の中には、着替えと、叔母の住所と、帰りの切符と、三浦さんが撮った写真が入っています。
どれも私のものでした。
けれども、三浦さんの手にあると、鞄まで少し違うものに見えました。
「さっきの話、本気ですか」
三浦さんが尋ねました。
「さっきの話?」
「仕事を探すって」
私は窓の上の広告を見ました。
〈夏の肌に、都会のうるおい〉
都会には、うるおいまで売っているようです。
「冗談で、汽車に六時間も乗りません」
「お父さんは知ってるんですか」
「知っていたら、私は今ごろ岐阜にいます」
「叔母さんは?」
「知りません」
「僕だけ?」
私は三浦さんを見ました。
「そうなりますね」
三浦さんは困った顔をして、首から下げたカメラの角を親指でこすりました。
男の人は、女から秘密を打ち明けられると、少しうれしそうにしてもよいはずです。少なくとも、姉が嫁ぐ前に貸してくれた『陽のあたる坂道』では、そうでした。でも三浦さんは、重い荷物をもう一つ渡されたような顔をしました。
「迷惑ですか」
「心配なんです」
「同じ顔をしてます」
三浦さんは返事をしませんでした。
御茶ノ水を過ぎたあたりで、座っていた女の人が立ちました。私は席を勧められましたが、断りました。岐阜から来たばかりで、もう東京の人に席を譲られるのは、何だか負けたような気がしたのです。
これは、ずいぶんつまらない意地でした。
つまらない意地ほど、捨てるのは難しいものです。
三浦さんが、鞄を持っていないほうの手で、シャツの胸ポケットを探りました。
「そうだ」
一通の封筒を出しました。
宛名は『暮しと産業』編集部。差出人は、日本橋横山町、東和洋装株式会社、宇野芙美子となっていました。
「記事が出てから届いた手紙です」
「読んでいいんですか」
「長谷川さんに関係があります」
便箋には、青いインクで、角ばった字が並んでいました。
〈記事を興味深く拝読しました。ただし、婦人服についての記事でありながら、登場する意見は男性のものばかりで、若い女性は写真になっているだけです。写真の女性が何を考えているのか、なぜ聞かなかったのでしょう〉
私は二度読みました。
「この人、正しいですね」
「やっぱり、そう思いますか」
「三浦さんも、女の着るものを男の人にばかり聞いたんですね」
「長谷川さんにも聞きましたよ」
「東京へ行きたいか、とか、岐阜が好きか、とかでしょう。服のことは聞きませんでした」
「そうでした」
三浦さんは、素直に認めました。
あまり素直に認められると、責めているこちらが欲張りに見えます。
「宇野さんは、東和洋装の商品部長です。うちの編集長が知っていました。小さい会社ですけど、婦人用の既製服を作って、百貨店や地方の洋品店へ卸しています」
「女の人が商品部長なんですか」
「そうです」
「会えますか」
「会いたいんですか」
「そのために見せたんじゃないんですか」
「住所を渡すだけのつもりでした」
「それを、会いたい人に見せると言うんです」
三浦さんは笑いました。
「明日、電話してみます」
「自分で行きます」
「いきなり?」
「手紙には、なぜ聞かなかったのでしょう、と書いてあります。答えに行くんです」
「何て?」
私は便箋を封筒へ戻しました。
「それを考えるために、今夜泊まるんでしょう」
荻窪の叔母は、私の顔を見ると、まず母に似ていると言いました。
「まあ、澄江姉さんの若い頃にそっくり」
それから、私の隣に立つ三浦さんを見ました。
「こちらは?」
「雑誌社の方です」
私が名前を言うより先に、三浦さんが名刺を差し出しました。
「東京駅で迷っていたので、お送りしました」
「迷ってません」
私は言いました。
「出口と、中央線がわからなかっただけです」
叔母は、くすっと笑いました。
「それを東京では、迷ったと言うのよ」
東京へ来て一時間もしないうちに、東京の言葉を一つ教わりました。
叔母の志津さんは、母より六つ下でした。母とは顔が似ていません。髪を短く切り、薄い口紅をつけ、灰色のワンピースを着ていました。母がその格好を見たら、家にいるのに口紅をつけるの、と言うでしょう。叔母は、東京では家の中にも東京があるのよ、と答えるかもしれません。
「上がって、お茶でも」
「いえ、会社へ戻ります」
三浦さんは鞄を玄関へ置きました。
「明日の朝、電話します」
「何を?」
叔母が尋ねました。
「取材のことで」
三浦さんはそう答え、私を見ました。
私も、取材の顔をしました。
どんな顔かは知りません。
三浦さんが帰ると、叔母は玄関の戸を閉め、すぐに言いました。
「いい人ね」
「三分しか話してないでしょう」
「三分あれば、悪い人かどうかくらいはわかるわよ」
「いい人かどうかは?」
「それは三年かかっても、わからない」
叔母は平気な顔で言いました。
母より都会的ですが、話の中身は母の妹でした。
叔父は印刷会社に勤めていて、その晩は夜勤で留守でした。叔母には子供がありません。二階の六畳間を私に使わせてくれました。窓を開けると、隣の家の屋根と物干し台が見えました。白い肌着や、男物のシャツや、子供の短いズボンが、夕方の風に揺れていました。
東京へ来たのに、富士山も、国会議事堂も、東京タワーも見えません。
よその家の洗濯物が見えました。
少し安心しました。
夕食は、鯵の干物と、冷奴と、茄子の味噌汁でした。東京でも味噌汁を飲むのでした。叔母が、赤味噌でなくて悪いわね、と言いました。
「東京の人は、毎日パンを食べるのかと思ってました」
「そんなわけないでしょう」
「雨の日も傘を持たないのかと思ってました」
「それ、誰のこと?」
私は冷奴へ醤油をかけました。
「東京の人です」
叔母は、私が持ってきた『暮しと産業』を、食後に読みました。私の写真のところで長いこと黙り、それから顔を上げました。
「本当に、澄江姉さんに似てる」
「お母さんも、こんな顔をしてたの?」
「ええ。岐阜を出たいと言った頃」
私は写真を見ました。
「お母さんが?」
「聞いたことない?」
「ありません」
叔母は雑誌を閉じました。
「なら、私から言うことじゃないわね」
「そこまで言っておいて?」
「そこまで言ったから、もう充分」
大人は、若い者が話を途中でやめると行儀が悪いと言います。自分たちは、いちばん気になるところでやめます。長く生きると、話にも利息をつけるようになるのでしょう。
「千代ちゃん」
叔母が言いました。
「はい」
「縁談があるんですって?」
母は、こちらのことは全部書いていました。
「あります」
「いい方なの?」
「真面目な人です」
「それは聞いた。いい方なの?」
「まだ、わかりません」
叔母は私を見ました。
この言葉は、たいていの人を黙らせます。
叔母は黙りませんでした。
「わからないまま、お嫁に行くつもり?」
「みんな、そうでしょう」
「みんなで行くわけじゃないのよ」
味噌汁のお椀の底に、茄子が一切れ残っていました。箸でつまむと、味噌を吸って重くなっていました。
「東京で仕事を探します」
私は言いました。
言ってから、自分の声が、ずいぶん子供っぽく聞こえました。
もっと静かに、何でもないことのように言うつもりでした。大事なことほど何でもないように言えたら、大人に見えます。私は、まだそこまで大人ではないらしいのです。
叔母は驚きませんでした。
「そう」
とだけ言いました。
「反対しないの?」
「してほしい?」
「別に」
「なら、しない」
叔母は立ち上がり、私のお椀を下げました。
私は、少し困りました。
反対されたら、用意してきた言葉がいくつもありました。女の着るものを女が選んで何が悪い、東京には叔母がいる、店には伊藤さんがいる、仕事を探しても、五日で東京に残るとは決めない。そういう言葉を、私は汽車の中で何度も並べ直してきたのです。
使わない言葉は、売れ残った反物に似ています。場所を取るだけで、だんだん色が褪せます。
「ただし」
叔母が台所から言いました。
「働くことと、逃げることを一緒にしないほうがいいわ」
「逃げてません」
私はすぐに答えました。
すぐに答えたことが、少し恥ずかしくなりました。
その夜、二階の部屋へ入ってから、私は鞄の中の写真を出しました。
雨上がりの岐阜で、写真の私は駅の方を見ています。
東京の会社の商品部長は、この女が何を考えているのか、なぜ聞かなかったのでしょう、と手紙に書きました。
私は、何を考えていたのでしょう。
東京へ行きたい。
三浦さんに、もう一度頼んでほしい。
縁談が嫌だ。
父に認められたい。
女の着るものを選びたい。
どれも本当でした。
一つだけが本当なのではありません。本当のことは、たいてい重なっていて、一枚ずつ剥がそうとすると、薄い布のように破れます。
私は写真を裏返しました。
〈一枚だけです。三浦〉
一枚しか撮らなかった人が、東京駅へ迎えに来ました。
それをうれしいと思いました。
いいえ、これくらいは、はっきり言ってもよいでしょう。
私は、うれしかったのです。
翌朝、私は母の入れてくれた紺色のブラウスを着ました。
水色のほうが好きでしたが、仕事を探す女は紺色を着るもののような気がしました。理由はありません。世の中のきまりには、理由のないものがたくさんあります。理由がないから、かえって長く続くのです。
八時すぎに三浦さんから電話がありました。
叔母が受話器を手でふさぎ、
「雑誌社の、いい人」
と言いました。
私は受話器を受け取りました。
「もしもし」
「宇野さん、十時なら会うそうです」
「何て言ったんですか」
「記事に写っていた女性が、話したいと言っている、と」
「仕事のことは?」
「言ってません」
「どうして」
「それは長谷川さんが言うことでしょう」
「そうですね」
三浦さんは、ときどき商売がわかっています。
「一人で行けますか」
「行けます」
「迷ったら、電話してください」
「迷いません」
「きのうも聞きました」
電話が切れてから、叔母が尋ねました。
「どこへ行くの?」
「日本橋横山町」
「反対側ね」
「何の?」
「東京の」
東京には、反対側まであるのでした。
日本橋横山町の問屋街は、岐阜に似ていました。
似ていると思った次の瞬間、まるで違うと思いました。
狭い通りに店が並び、荷車が走り、男たちが大声で値段を言い、商品を詰めた箱が積まれています。ここまでは同じです。けれども、岐阜の店先には反物があり、東京の店先には出来上がった服が吊られていました。
ブラウス、スカート、ワンピース。
赤、黄、青、白。
風が吹くと、首も腕もない服が、一斉にからだを揺らしました。
たくさんの女が、声を出さずに立っているようでした。
東和洋装株式会社は、間口の狭い三階建ての建物でした。一階の奥まで、金属の棒に婦人服が吊られています。若い男の店員が、鉛筆を耳にはさみ、得意先らしい男に品番を読み上げていました。
私は入口に立ちました。
誰もこちらを見ません。
東京では、黙っている人は、いない人と同じです。
「ごめんください」
男の店員が顔を上げました。
「小売りはしてませんよ」
「買いに来たんじゃありません」
「御用は?」
「宇野さんにお会いしたいんです」
「お約束は?」
「十時に」
「お名前は」
「長谷川千代です」
男は首をかしげました。
私の名前など、知らなくて当然です。雑誌で私は、問屋街の若い女性でした。
「『暮しと産業』の記事の女です」
自分で言って、ずいぶん妙な名乗り方だと思いました。
二階へ通されました。
宇野芙美子さんは、大きな裁断台の向こうに立っていました。四十歳くらいでしょうか。髪を後ろで一つにまとめ、白い開襟シャツに黒いスカートをはいていました。首に巻尺をかけています。装身具の代わりのようでした。
部屋には女の人が六人いて、ミシンを踏んだり、型紙へ線を引いたりしていました。足踏みミシンの音は野田縫製と同じでした。どこへ行っても、女の足は机の下で働いています。
「あなたが、写真の若い女性?」
宇野さんが言いました。
「はい」
「若い女性なら、東京に何十万人もいるわ」
「駅の方を見ている女です」
「駅を見る女も多いでしょうね」
私は鞄から写真を出しました。
宇野さんは表を見て、裏を見ました。
「一枚だけです。三浦」
声に出して読み、私を見ました。
「証拠になる?」
「たぶん」
宇野さんは、初めて笑いました。
「記事を見て、何を考えている顔だと思いました?」
私が尋ねると、宇野さんは写真を裁断台へ置きました。
「この町を出ること」
「違います」
「違うの?」
「通りを走っていく自転車を見ていました」
宇野さんは声を立てて笑いました。ミシンを踏んでいた女の人たちも、こちらを見ました。
「三浦君には教えないでおきましょう。写真家が気の毒だから」
「写真家じゃありません。雑誌の記者です」
「同じようなものよ」
私は、少しだけ三浦さんの味方をしたくなりました。
「違うそうです」
宇野さんは椅子を勧め、自分も裁断台の向こうへ腰を下ろしました。
「それで、自転車を見ていたお嬢さんが、どうして東京まで?」
「女の着るものを、女が選べる仕事を探しに来ました」
言ってしまうと、ずいぶん立派に聞こえました。
立派な言葉は、借りものの洋服に似ています。着ているうちに肩が凝ります。
「あなた、洋服を選べるの?」
「反物なら」
「反物と洋服は違うわ」
「反物がなければ、洋服もありません」
「女がいなければ、どちらも要らない」
宇野さんは言いました。
私は、この人が好きかもしれないと思いました。
好き、というのは、男の人だけに使う言葉ではありません。むしろ女が女を好きになるほうが、用心が要ります。自分に出来なかったことをしている女を、人は好きになったり、憎んだりします。たいてい、その二つを同時にします。
「岐阜では、何を?」
「父の店で帳場をしています。伝票、電話、荷造り、仕入れの控え。反物も運びます」
「仕入れは?」
「父と番頭さんです」
「選びたい?」
「はい」
「結婚は?」
私は黙りました。
東京の女は、初対面でも聞くことが早いようです。
「決まりかけています」
「なら、帰ったほうがいいわ」
「どうして」
「仕事は、東京見物のついでに持って帰れるお土産じゃないもの」
「結婚も、写真を見たついでに決めるものじゃありません」
言ってから、少し言い過ぎたと思いました。
言い過ぎた言葉は、口へ戻せません。返品のきかない商品です。
宇野さんは怒りませんでした。
「そうね」
とだけ言い、立ち上がりました。
部屋の隅のハンガーから、三枚のワンピースを取って裁断台へ並べました。
一枚は、薄桃色の小花模様で、襟に白いレースがついていました。
一枚は、青い無地で、腰に細いベルトがありました。
もう一枚は、灰色と白の細かな格子で、胸元に小さな襟、腰の左右に大きなポケットがついていました。
「岐阜へ持って帰って売るなら、どれ?」
私は三枚に触りました。
小花模様はレーヨンで、手触りは柔らかいけれど、水に弱そうでした。青い服は見栄えがします。しかし、袖ぐりが狭く、腕を上げると肩がつれるでしょう。格子の服は木綿で、華やかではありません。
「これです」
私は格子の服を選びました。
「どうして」
「洗えます。腕が動きます。ポケットが二つあります」
「きれいじゃないわ」
「着る人が、きれいに見えればいいでしょう」
「見える?」
私は服を持ち上げました。
「これは、店で働く女の人が着ます。伝票と鉛筆を右のポケットに入れて、左には小銭か鍵を入れます。棚の上の箱を取るとき、腕が上がります。汚れたら自分で洗えます。働いている人は、きれいです」
最後の一言は、余計でした。
私は自分が急に恥ずかしくなり、服を裁断台へ戻しました。
「でも、それは売れないの」
宇野さんは言いました。
「三枚の中で、いちばん注文が少ない」
「そうですか」
「女は、働くためだけに服を買うんじゃないわ」
私は返事が出来ませんでした。
岐阜を出て、まだ一日しか経っていません。それなのに、自分には女の気持ちがわかるような顔をしていました。
私は、女なのに、女のことを知りません。
たぶん、自分のことさえ、まだよく知りません。
宇野さんが小花模様の服を持ち上げました。
「いちばん売れるのは、これ。洗いにくくても、ポケットがなくてもね。働く女ほど、働いていないように見える服を欲しがることがあるの」
「どうしてですか」
「仕事が好きな日ばかりじゃないからでしょう」
一階から、男の声がしました。
「宇野さん、山川さんがお見えです」
「上がっていただいて」
階段を上がって来たのは、五十歳くらいの女の人でした。日に焼けた丸い顔をして、大きな風呂敷包みを抱えています。埼玉で洋品店をしているのだと、あとで知りました。
「秋口の普段着、何かない? 奥さん方が、朝から店に立って、そのまま夕飯の買い物に行けるようなの」
宇野さんは、三枚の服を指しました。
「どれがいいと思います?」
山川さんは、小花模様を見て、青い服を見て、最後に格子の服を手に取りました。
「これ、ポケットが大きくていいね」
私は宇野さんを見ました。
宇野さんは私を見ませんでした。
「腕も上げやすいですよ」
と、すました顔で言いました。
「色違いも見せて。あんまり暗い色はよしてね。働いてる女だって、葬式へ行くんじゃないんだから」
宇野さんは、格子の服を私へ渡しました。
「下へ持っていって。品番は襟の内側。色見本を三つ揃えて、山川さんに見せてあげて」
「私が?」
「ほかに誰がいるの」
私は服を抱えて一階へ降りました。
品番を確かめ、男の店員に棚の場所を尋ね、三つの色見本を揃えて二階へ戻りました。
山川さんは、灰色と白、茶色と白、紺色と白を六枚ずつ選びました。
「承知しました」
宇野さんは、注文を書き留めた紙を私へ渡しました。
「下で伝票にして」
そこからは、考えている暇がありませんでした。
私は一階へ戻り、伝票を書きました。東京の伝票も、岐阜の伝票と同じでした。品番、数量、単価、納期。数字は東京へ来ても東京弁を使いません。
電話が鳴りました。鉛筆を耳にはさんだ男の店員が、品物を抱えたまま顎で受話器を示したので、私は取りました。
「はい、東和洋装でございます」
自分でも驚くほど、すらすらと言えました。
電話の向こうから、静岡の店だという男の人が、先週頼んだブラウスがまだ届かない、と怒鳴りました。
私は発送控えを探しました。
「十九日に発送しております。鉄道小荷物ですので、本日か、遅くとも明日の午前には着くと思います」
「本当だろうな」
「発送番号を申し上げます」
番号を読むと、男の声が少し小さくなりました。
怒っている人は、数字を聞くと静かになります。数字のほうが自分より怒っていないからでしょう。
受話器を置くと、鉛筆を耳にはさんだ男の店員が、私を見ていました。
「経験者?」
「問屋の娘です」
「なるほど」
その、なるほど、が少しうれしく、少し腹立たしく聞こえました。
娘でなければ出来ないように聞こえたからです。
けれども今は、腹を立てている暇もありませんでした。
昼を過ぎても、私は東和洋装にいました。
宇野さんは、お昼を食べるのかとも、帰るのかとも聞きませんでした。十二時半になると、女の人たちが裁断台の上を片づけ、新聞紙を敷き、それぞれ弁当箱を開きました。
私は帰る時を失いました。
帰る時を失うというのは、不思議なものです。行く場所を失うより、少しだけ楽しい。
隣に座った若いミシン係の早苗さんが、卵焼きを一切れくれました。
「岐阜から来たんですって?」
「はい」
「東京はどう?」
「まだ、電車と問屋街しか見てません」
「それで充分よ。東京なんて、だいたい電車と仕事場で出来てるんだから」
女たちは笑いました。
私も笑いました。
朝、広告で見た東京の女とは、ずいぶん違いました。汗をかき、急いでお茶を飲み、恋人の悪口を言い、伝線した靴下を気にしていました。けれども、その人たちのほうが、広告の女よりきれいに見えました。
いいえ、また私は、働く女はきれいだ、という自分の考えに都合のいいものだけを見ていたのかもしれません。
人は、自分の決心を正しく見せる景色を、上手に探します。
午後三時ごろ、宇野さんが私を二階へ呼びました。
「いつまで東京にいるの」
「あと四日です」
「そのあとは?」
「岐阜へ帰ります」
「仕事を探しに来たんじゃなかった?」
「帰る約束をしました」
「約束を守るのね」
「守ってから、変えます」
宇野さんは、首の巻尺を外し、くるくる丸めました。
「明日から三日、ここで働いてみる?」
「三日?」
「東京見物よりは、この町がよく見える。日当も出します」
「雇ってくれるんですか」
「三日働かせるだけ。雇うかどうかは、そのあと」
「私は岐阜へ帰ります」
「聞きました」
「父にも、まだ」
「聞いてません」
私は、裁断台の上の写真を見ました。
写真の私は、まだ岐阜に立っています。
東京にいる私は、紺色のブラウスを着て、首に汗をかき、知らない会社の裁断台の前に立っています。
どちらが本当の私かと考えました。
どちらも本当なのでしょう。
そうでなければ、どちらも嘘です。
「働きます」
私は言いました。
宇野さんはうなずきました。
「朝八時半。遅刻は一度で帰ってもらいます」
「遅れません」
「それから、その紺色、似合わないわよ」
私は自分のブラウスを見ました。
「仕事を探すので」
「服の仕事を探す女が、似合わない服を着てきてどうするの」
宇野さんは写真の中の水色のブラウスを指しました。
「明日は、そっちにしなさい」
会社を出ると、通りにはまだ明るい西日が残っていました。
吊られた服の列を、風が端から揺らしていきました。
一枚が揺れると、その隣が揺れ、またその隣が揺れました。誰も着ていないのに、服だけがどこかへ歩き出しそうでした。
私は公衆電話から三浦さんの雑誌社へ電話をかけました。
「どうでした」
三浦さんが出ました。
「明日から働くことになりました」
「雇われたんですか」
「三日だけ」
「三日で辞めるんですか」
「三日で決めるんです」
「何を?」
「宇野さんが、私を雇うかどうか」
「長谷川さんは?」
「私も、ここで働きたいかどうか」
電話の向こうで、三浦さんが笑いました。
「困ってます?」
私は尋ねました。
「少し」
「どうして」
「記事を一本書いたら、岐阜の問屋の娘が東京で働き始めた」
「まだ始めてません」
「明日からでしょう」
「そうです」
私は受話器を持ったまま、通りを見ました。
男たちが箱を運び、女たちが店先の服を中へ取り込んでいます。一日の終わりには、東京の商品も店の奥へ帰るのでした。
「三浦さん」
「はい」
「写真を撮った責任を感じてるんですか」
しばらく返事がありませんでした。
「少し」
「感じなくていいです」
「どうして」
「東京へ来たのは、私ですから」
受話器を置きました。
それから、もう一度取り上げそうになりました。
今夜、会えますか、と言いたかったのです。
言いませんでした。
仕事を見つけた日に、すぐ男の人に会いたがるのは、何だか仕事に悪いような気がしました。仕事は、そんなことで機嫌を損ねたりしないでしょうけれど、私はまだ、仕事というものを立派な人だと思いすぎていました。
荻窪へ帰ると、叔母が玄関で言いました。
「岐阜から電話があったわよ」
「お父さん?」
「ええ。着いたかって」
「それだけ?」
「水野さんのお宅へ、帰ってから返事をすると言っていたでしょう。忘れるな、ですって」
私は靴を脱ぎました。
「忘れてません」
「それから、東京見物はどうだって」
「まだ、電車と問屋街しか見てません」
「何て返事をする?」
叔母が尋ねました。
「明日から三日、働きます」
「それを、お父さんに言うの?」
「まだ言いません」
「どうして」
「三日で辞めさせられるかもしれないから」
叔母は、私の顔を見ました。
「辞めさせられなかったら?」
「そのとき考えます」
「便利ね。わかりませんの次は、そのとき考えます」
「叔母さんも使えばいいのに」
「私はもう、使いすぎたわ」
叔母は笑いました。
夕食のあと、私は水色のブラウスを洗いました。洗面器の中で、岐阜からの汽車でついた汗と煤が、水へ薄く溶けました。
叔母が、物干し台へ竹竿を出してくれました。
夜の風に、水色のブラウスが揺れました。
隣の家の白いシャツも、子供の短いズボンも揺れていました。昼間、問屋街で見た何十枚もの服と違い、それぞれに着る人のからだがあり、帰る家がありました。
私のブラウスにも、からだがあります。
明日の朝、私が着ます。
帰りの切符は、鞄の内ポケットに入れたままでした。
約束どおり、私は岐阜へ帰ります。
帰って、それからどうするのか。
まだ、わかりません。
けれども、わからないことが、今夜は少しも怖くありませんでした。
吊るしの服は、誰かが腕を通すまでは、どこへ行くのか知りません。それでも、きちんと前を向いて吊られています。
私は明日の目覚まし時計を、七時に合わせました。
それだけは、もう決まっていました。

第三章 了
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