出汁の味が、わからなくなっていただけだ──通でも俗でもない場所で、味が戻る瞬間
No Name Line #08
ある焼き鳥屋で、こんな光景を見た。
カウンターの隣に座った男が、
串を一本ずつ、丁寧に「塩で」と注文していた。
そして、店主に言った。
「タレで食べる人って、素材の味がわからないんでしょうね」
店主は、何も答えなかった。
ただ、黙って次の串を焼いていた。
私は、その沈黙に、何かを感じた。
◆ 「出汁の味がわかる」は、条件つきだ
「濃い味に慣れると、出汁の味がわからなくなる」
─── これは、よく聞く言葉だ。
そして、ある意味では正しい。
でも、逆に問いたい。
「出汁の味がわかる」というのは、
それだけの余裕がある、ということではないのか?
出汁の味を知るには、条件がいる。
静かな環境で、
丁寧に引かれた出汁を、
適切な温度で、
適切な器で、
適切なタイミングで味わう。
─── そういう"余裕"がなければ、出汁の味は、届かない。
タレを好む人間が「鈍い」のではない。
出汁を味わえる環境にいない、というだけだ。
◆「素材の味」という言葉の暴力
「素材の味を楽しむ」──
この言葉は、美しい。
でも、その美しさの裏側には、
ある種の"鈍感さ"への軽蔑が隠されている。
「タレで食べる人は、素材の味がわからない」
「濃い味に慣れた舌は、繊細さを感じられない」
─── こういう言説は、一見、味覚の話をしているようで、ほんの少しずつ、境界線を作ってしまっている。
「わかる人」と「わからない人」。
「洗練された舌」と「鈍った舌」。
─── そうやって、線が引かれる。
◆「塩で食べる方が通」という空気
焼肉でも、寿司でも、ステーキでも。
「塩で食べる方が通」
「タレは素人」
─── こういう空気がどこかある。
でも、よく考えてほしい。
誰が、それを決めたのか?
塩が「正しい」とされる根拠は、
どこにあるのか?
タレは、なぜ“通ではない”という位置に置かれてしまうのか。
答えは、ない。
あるのは、「正しさ」という空気だけだ。
そして、その空気を作っているのは、
「出汁の味がわかる」と自認している人間たちだ。
◆「わかっている」と言った瞬間に失われるもの
「通ぶっている」──
この言葉には、ある種の嫌悪が込められている。
なぜ嫌われるのか?
それは、
「通」になるということは、
"通れない人"を生むということでもあるからだ。
「私は、わかっている」
「あなたは、わかっていない」
─── この線引きが、暴力になる。
◆ どうしても、馴染めないものがある
正直に言えば、私も「俗」が苦手だ。
タレの甘ったるさ、濃い味、わかりやすい旨さ ──
どうしても、馴染めない。
あまりに“味が強い”ものばかりがもてはやされるのは、今の社会の風景にも、どこか似ている。
でも、それを「正しさ」として語る気はない。
それは、ただの好みだ。
そして、その好みを持てたのは、
たまたま、そういう環境にいたからだ。
だから、私は「通」を名乗らない。
でも、「俗」にも属さない。
ただ、
「俗を苦手だと感じる自分」を、どう扱えばいいのか ──
それが、わからないだけだ。
◆「水を飲む」ということ
ある日、友人がこう言った。
「濃い味に流されすぎたなって思ったら、一回、水を飲む。それだけで、また"うまい"がわかるようになる。少しだけな」
この言葉は、正しい。
でも、私はこう思った。
「正しい味覚」に慣れすぎたときも、
同じように、水を飲むべきだ。
「塩が正しい」という前提。
「タレは劣っている」という空気。
「出汁の味がわかる人間は、洗練されている」という思い込み。
─── そういう"味覚の正義"に慣れすぎたとき、私たちは、何も味わえなくなる。
水を飲む、ということ。
それは、すべての味付けから、
一度、離れることだ。
◆ 好みが、いつの間にか正義になっていた
結局、味覚には、正解がない。
塩が正しいわけでもない。
タレが間違っているわけでもない。
出汁が上品なわけでもない。
濃い味が下品なわけでもない。
ただ、好みがあるだけだ。
でも、私たちは、
その「好み」を、「正しさ」にすり替える。
「私の舌は、洗練されている」
「あなたの舌は、鈍っている」
─── こうして、味覚は、支配の道具になる。
私は、どちらでもない
私は、「通」ではない。
でも、「俗」でもない。
ただ、
「正しい味覚」という暴力から、距離を取っているだけだ。
塩も、タレも、出汁も、濃い味も ───
すべて、ただの「味」でしかない。
それを、「正しさ」で階層化した瞬間、
味は、もはや味ではなくなる。
だから、私は、水を飲む。
すべての味付けから離れて、
もう一度、「うまい」を取り戻すために。
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