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【小説:稲作ヒストリア in 恵那|農具がひらく時代】 2.黄金の手ざわり@1920年・秋

地域学習の発表会が終わったのは、放課後の教室がいちばん眠くなる時間だった。

コウタとミカがいるグループは、特に機械化されていない時代のコメ作りについて力を入れて発表した。黒板の前で話し終えたとき、クラスの何人かが「へぇ、すごい」と言ってくれた。先生も頷いていた。稲作の歴史、農機具の変遷、スマート農業――発表としては、たぶん合格点だ。

でも、ぼくとミカにとって、あれは見て聞いて学んだことの発表じゃなかった。言えない部分が、丸ごと残っている。

掌の豆は、もう目立たない。けれど、消えていない。ふとペンを握ったとき、硬い皮膚が引っかかる。

帰り支度をしていると、ミカがぼくの袖を引いた。

「……ねえ」

声が小さい。教室のざわめきの隙間に、落ちるみたいに届く。

「いつ、いく?」

それだけで、何の話か分かった。JAひがしみの恵那支店。あの常設展。あの扉。あの泥。

ぼくは鞄の肩紐を握り直した。

「今すぐ、ってわけには……」

「うん。わたしも。……でも、行きたい」

ミカの目は、迷っていなかった。ハルのところから戻ってきたときと同じ目だ。怖くないわけじゃない。でも、それより確かめたい。

ぼくは、展示の列を思い出す。犂の隣にあった、別の道具。細い刃が光る、鎌。説明札は「昭和初期」だった気がする。でも、あの場所で年号は、もう意味を失っている。

「鎌……持ってみる?」

口にしてから、少し笑いそうになる。普通なら変な提案だ。けれど、ぼくらは一度見てしまった。道具が“時代”をひらく瞬間を。

ミカが頷く。

「……収穫、見たい。植えたの、どうなるか」

“植えたの”という言い方が、胸に刺さった。ぼくらは確かに植えた。あの泥の中で。歌に引っ張られながら。

週末の午後、ぼくらは再びJAひがしみの恵那支店のロビーに立っていた。

同じ匂いだ。床材の匂い、紙の匂い、冬の外気。そこに混ざる土の気配――いや、今は違う。ぼくの中で、土の匂いの意味が変わってしまった。

受付の前を通ると、支店長がいた。名札が光る。気づいたように目が合う。

支店長は、ほんの少し口元を上げた。笑っているというより、知っている顔だ。

ぼくは何も言えなかった。言ってはいけない気がした。代わりに、軽く頭を下げる。支店長は、それだけでいい、と言うみたいに視線を外した。

体験展示の前で、ミカが鎌を見つめる。木の柄、金属の刃。小さく、鋭い。

「……これを持って、扉」

ミカが呟く。

「うん」

ぼくは頷いた。鎌を持つと、意外に軽かった。犂の重さとは違う。軽いのに、緊張が走る。刃物だから、というだけじゃない。これは“終わり”の道具だ。実りを切り取る。

扉の前で、ミカが息を吸う。

「刈ってみたい」

まるで、田んぼに向かって言うみたいに。

ぼくは鎌を握り直して、扉を押した。

――空気が、変わる。

冷たいはずの廊下の空気が、一瞬、乾いた匂いに変わった。草の匂い。藁の匂い。遠くの煙の匂い。

目を開けると、空が高かった。

夏じゃない。肌に触れる風が、涼しい。陽射しは強いのに、空気が軽い。遠くの山は変わらずそこにあるのに、色が違う。緑が落ち着いて、稲の黄が目に刺さる。

黄金色の田んぼが、目の前に広がっていた。

ぼくの喉が、勝手に鳴った。

「……秋だ」

ミカも息を呑んでいた。植えた稲が、頭を垂れている。あの小さな苗が、こんなふうに。風に揺れて、ざわざわと音を立てる。その音が、なんだか“生き物の声”みたいに聞こえる。

背後には、あの納屋がある。板壁、藁、縄。ここは同じ場所だ。同じ時代の延長だ。

「おーい!」

聞き覚えのある声がして、畦道の向こうから誰かが走ってきた。

ハルだ。

着物に前掛け。頬が赤い。目が強い。ミカと並ぶと、怖いくらい似ている。ぼくはそれに慣れないまま、でも少しだけ安心した。ここに戻ってこれた。戻る場所が、過去側にもある。

「なんや、ほんまに来たんやな!」

ハルはミカを見て、嬉しそうに笑った。

「言うたやろ、また来るって!」

ミカは言葉に詰まって、でも小さく頷いた。

「……うん」

ハルの視線が、ぼくの手の鎌に止まる。

「刈るんやな。ほれ、今日はええ日や。手ぇ足りんし、助かるわ」

当然のように言う。昔の時間は、ぼくらを歓迎して、引っ張り込んでいく。

田んぼの端には、稲束を結ぶ藁が用意されていた。刈り取りは、思った以上に単純で、思った以上に難しい。

鎌の刃を稲の根元に入れる。ざく、という音。手首に、軽い抵抗。切れる。束を揃える。藁で結ぶ。

やってみると、すぐに分かる。無理をすると指を切る。焦ると稲が散る。丁寧にやると時間がかかる。でも、丁寧じゃないと最後に全部が崩れる。

ミカは、黙って刈っていた。田植えのときと同じだ。観察して、必要な力だけを使う。ハルが横で「そうそう」と笑う。

「ミカ、手ぇ器用やな。……うちの家族もみんな器用やけど、ミカも同じくらい器用やな」

ハルがふと、そんなことを口にした。
ミカの指が、一瞬止まる。ハルが続けて言う。

「うちな、子供は絶対漢字の"春"を入れた名前にしたいんや。コメ作りを代々引き継いできたみたいに、名前の一部を引き継いでってほしいと思う。ミカはどんな漢字やの?」

「私は、美しい香りと書いて、美香」

「いい名前やな。美しい香りか。千里香のことが思い浮かぶわ」

ハルは何でもないみたいに言った。
ぼくは胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。

似たような話を、前に聞いたことがある。ミカは、"香"の漢字をお母さんの名前からもらったのだと。
――偶然だろうか?

ミカは、何か言いかけて飲み込んだ。代わりに稲を刈る手を動かした。刃が光る。稲が切れる。言葉にならないものが、束になっていく。

その日の午後、空が少しずつ暗くなった。

遠くの山のほうが、灰色に沈む。風が変わる。稲の波が、さっきより荒い。

「台風が来るかもしれん。山の方はもう降っとるな」

大人がそう言って、空を見上げた。

台風。ぼくの中で、その言葉はニュースの映像と結びついている。でもここでは、ニュースじゃない。暮らしの中の出来事だ。対策が遅れると、田んぼが終わる。

夕方、雨が本格的になる前に、刈った稲をはざにかけた。木の棒に稲束を引っかけて、乾かす。並べ方にもコツがあるらしい。均等に風が通るように。落ちないように。

作業の合間、ハルが言った。

「水、見に行ってくる」

さらっと言う。まるで「ちょっと手を洗ってくる」みたいに。

ミカが顔を上げた。

「え、今? 雨……大丈夫?」

ハルは頷く。

「今やないと。水が増えたら、畦がやられる。うちは田んぼが命やで」

その言葉が、重かった。命。米が、命。だから行く。怖いから行かない、じゃない。怖くても行く。

ぼくは反射的に言っていた。

「ぼくも行く」

ミカも同じタイミングで「わたしも」と言いかけて、ハルに手で止められた。

「ミカは、ここで待っとり。山の方やから、慣れとらんと難しい」

山道になれていないミカは反論できない。ミカは唇を噛んで頷いた。

ぼくとハルは、畦道を走った。雨が頬に当たり始める。土の匂いが濃くなる。水路は、すでに勢いが増していた。水の色が変わる。泥が混ざっている。

ハルはしゃがんで、水の流れを見た。棒で軽く押して、詰まりがないか確かめる。草を避ける。落ち葉を取り除く。

危険なことはしない。無茶もしない。ただ、見て、手を入れる。それだけなのに、責任の重みが違う。

「ねえ」

ぼくが息を切らして言う。

「これ、毎回やるの?」

ハルは濡れた前髪を払って、当たり前みたいに答えた。

「当たり前やろ。田んぼは見てやらんと、すぐ拗ねる」

その言い方は、田植えの時にハルが言った“苗の機嫌”と同じだった。

田んぼは、機械じゃない。自然でもない。暮らしの相棒みたいなもの。人が見続けて、付き合って、やっと実る。

納屋に戻るころ、雨は少し落ち着いていた。ミカが心配そうに立っていたけれど、ぼくの顔を見てほっと息を吐いた。

「……大丈夫だった?」

「うん。ハルが、すごく慣れてた」

ハルは笑って肩をすくめた。

「慣れやない。やらんと、困るだけや」

翌日、空は嘘みたいに晴れた。台風は逸れたのか、山の向こうへ流れたのか。風だけが少し強い。

稲は、はざで乾いていく。乾いたら、次は脱穀だ。穂から籾を外す。手でやると指が痛い。道具を使っても、やっぱり痛い。

ミカが籾を掌に載せて見つめる。

「……これが、お米の元」

ぼくは頷いた。小さい粒が、こんなに手間を連れてくる。

石臼引きは、思ったより静かな作業だった。ごり、ごり、と低い音。回すたびに白いものが増える。籾殻が取れて、米が姿を変える。

ミカが、ふっと笑った。

「美香って、香りの字、入ってるでしょ」

唐突に言うから、ぼくは瞬きした。

「うん、前に言ってた」

「でも、……お母さんは春香。おばあちゃんは春美。なんか……」

ミカは言葉を探して、見つからないみたいに口を閉じた。ぼくはその続きを、勝手に胸の中で補った。

つながってる。

ここで起きていることが、名前の中にも残っている。血の中にも、土地の中にも。

夕方、炊き上がった米の匂いが、家いっぱいに広がった。湯気が白い。土間の冷えた空気の中で、その湯気だけが温かい。

茶碗に盛られた白い米は、ただの白じゃなかった。泥の色も、歌の声も、台風の雨も、はざの影も、石臼の音も、全部がそこに混ざっている気がした。

ひと口食べると、甘かった。

ミカが、目を伏せた。泣いているみたいに見えて、でも泣いていなかった。息を整えているだけだった。

「……おいしい」

その一言が、全部だった。

ハルは得意げに笑って、でもすぐに真面目な顔になる。

「米はな、育てた人が愛情、手間をかけた分だけ、うまいんや」

ぼくは箸を止めた。育てた人が愛情、手間をかけた分だけ。ぼくらは、ほんの少ししか関わっていない。でも、その“ほんの少し”が、胸に残っている。

日が落ちる前、ぼくらは納屋へ向かった。

鎌を洗って、乾かして、道具の家に戻す。役目を終えた道具は、黙ってそこに収まる。犂のときと同じだ。道具を戻すと、世界がほどける。

納屋の扉を押して外へ出る。

白い蛍光灯。ロビーの明るさ。床の硬さ。現代の音。

時計はほとんど進んでいなかった。発表会の余韻が、まだ校舎の中に残っているみたいに。

ミカがぼくの手を見る。豆。土。落ちない匂い。

「……戻れた」

小さく言う。安心した声だった。

ぼくも、肩の力が抜けた。戻れる。なら――確かめたい。ここで起きたことが、現代にも残っているのか。

ぼくらはその足で、ミカの家へ向かった。理由を説明できないから、言い訳は「資料、見せて」で十分だった。

玄関を上がると、家の中の匂いはいつも通りだった。洗剤と、夕飯の気配。なのに、ぼくの目は勝手に探している。木。柱。家の骨。

居間の奥に、大黒柱があった。

太い。古い。触れると、ひんやりする。

ミカが、ゆっくり近づいた。まるで怖いものを見るみたいに。手を伸ばして――柱の、ちょうど手の高さのあたりを見た。

そこに、細い傷があった。

細くて、浅い。古いのか新しいのか、判断がつかない。ただ、“ここにある”という事実だけが、胸を叩く。

ミカの指先が、その傷をなぞった。

息を吸って、吐いて、それでも言葉にならない。

ぼくは、喉の奥が乾くのを感じながら、やっと言った。

「……あのときの、かな」

ミカは首を横に振らなかった。頷きもしなかった。

ただ、小さく笑った。笑うというより、現実に触れてしまった人の顔だった。

「わかんない」

その言葉が、逆に本物だった。

記憶が先にあって、過去がそれをなぞったのか。過去が先にあって、今に傷が残ったのか。

どちらでもいい、と思った。

大事なのは、ぼくらが確かに“あそこ”に立って、稲を植えて、刈って、食べたことだ。泥の温度も、黄金の手ざわりも、掌が覚えている。

ミカが、ぼくを見る。

「……次も、行く?」

ぼくは、あのロビーの扉を思い出した。道具がひらく時代。支店長の目。ハルの笑い声。田んぼの音。

そして、まだ触れていない道具の列。

ぼくは頷いた。

「うん。次は……耕運機の時代を見に行こう。あの田んぼに、鉄の音が入ってくるところを」


稲作ヒストリア in 恵那 第2話のダイジェストです。


※本作品は、歴史的背景に基づいたフィクションです。
時代背景の調査には細心の注意を払っていますが、間違いがある可能性がある旨あらかじめご了承ください。
実在の人物、地名、団体などは一切関係ございません。


物語の背景にしている 1920年頃から現代の暮らしや農作業の様子 について、実際の資料をもとにした時代考証メモをまとめています。

「この場面、実際はどうだったんだろう?」

もしそんなふうに思われた方は、こちらもご覧ください。
※有料でのご案内となります。すみません。


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