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医師と患者のエトセトラ:「エビデンス」の処方箋

あっちの医師と、こっちの医師で、言っていることが違う。

そんな場面に遭遇したら、どうしますか?
闘病患者にとっては「あるある」の問題に、
どう向き合えば良いのでしょうか。

WHOや厚労省のガイドラインも知らずに、
あれこれいう医師なら悩むこともありません。

私が頭を抱えてしまったのは、病気に真剣に向き合う2人の医師に、「エビデンス」に基づき、違う説明をされた時でした。

今回の記事では、医療における「エビデンス」を、患者視点で考察してみたいと思います。


医師の語る「エビデンス」にモヤモヤする

この「あるある問題」を改めて思い出したのは、あんこさんの『医者の語る“エビデンス”にモヤモヤする』を読んだ時でした。

患者が体調を崩したとしても、「でも、この治療はエビデンスがあるからね」と流されてしまい、ついには「エビデンス」が「最も聞きたくない言葉No.1」に輝きます。

その治療で体調を崩したことは、エビデンスではないのか。というツッコミはさておき。

私の他にも、医者と患者の間におこる「モヤモヤ」に悩まされる人がいる。もしかしたら、同じ思いをかかえる人が、私が想像する以上にいるのではないかと思いました。

コロナ後遺症における「エビデンス」の立ち位置

コロナ後遺症については、そもそも治療法が確立していません。
平畑医師は著書『コロナ後遺症』の中で、ウイルス残存説や自己抗体説など9つの仮説を紹介し、現段階では特定が難しい状況にあることを指摘します。
こうした状況での「エビデンス」とは非常に不安定で、異なる仮説同士がぶつかり合う可能性を含み置く必要があります。

冒頭の「あるある問題」も、そんなさなかで起きました。具体例は差し控えますが、例えば医師Aが処方した薬をみた医師Bに「すぐにやめた方が良い」と言われたとしましょう。

一体、何を信じれば良いのか。医療に対する不安感が、まるで水に垂らしたインクのように、じんわりと広がっていくのを感じました。


医師の「地雷」を踏む勇気はあるか

医師Aの処方が医師Bに否定された。そんな時、当の本人に「別の医師がこんなことを言ってまして」なんて言えるでしょうか。

答えはNoです。

家族や友人は、「自分の体のことなんだから、遠慮なく聞けばいいのに」と言います。医師も「分からないことは、聞けば良いよ。それに答えるのも医師の責任なんだから」と言ってくれました。

その通りです。その通りなのですが。
「患者」になった途端、それが簡単なことではなくなってしまう。

だって、健康も生活も、医師の手の中にある。
ただでさえコロナ後遺症を診てくれる医師が不足する中、万が一にも医師の機嫌を損ねてしまったら。治療する人がいなくなってしまったら。診断書を書いてくれなくなってしまったら。

そんな潜在意識が、医師と患者という関係を難しくしているのかもしれません。


医学的事実と医師の解釈を切り離す

そんな「モヤモヤ」をかかえながら、コロナ後遺症の研究者Cと話す機会に恵まれます。

「この状況、どう思われますか?」

心理的に追い込まれていた私は、今までの検査結果とお薬手帳を見せ、唐突に問いかけます。するとその先生は「私は主治医ではないので、治療はできないけれど」と前置きし、こう言いました。

ひびきさん、この検査結果は「事実」です。
でもその事実をどう「解釈」するかは、人それぞれなんです。

なぜ「医師によって違う」ことがあるのか

なるほど。
例えば、コロナの抗体検査をするとします。その検査結果の数値は「事実」です。それを「抗体のおかげで感染が予防できる」と考えるか、「抗体が後遺症を引き起こしている」と考えるか。これが「解釈」の違いです。

コロナ後遺症のように、研究が進行中の病気・治療については、不確実性が大きく、同じ「エビデンス」をもとにしても、医師によって判断が分かれることもあるでしょう。そしてそれは、「正しい」「間違っている」、ましてや善悪の問題ではない(可能性が高い)。

患者として、反射的に「エビデンス」の板挟みに慌てふためくのではなく、まずは落ち着いて深呼吸をする。それが得策のように思いました。

患者は「エビデンス」を検証できない

研究におけるエビデンスは、専門家同士の間の検証が機能します。
一方、医師と患者の間における「エビデンス」は検証がほぼ不可能です。つまり、患者は「エビデンスがある」という言葉だけで納得できるとは限らないのです。

そもそも、エビデンスという言葉の定義は広く、人や文脈によって様々な使い方がされています。例えば、個別の検査結果を指すこともあれば、ある解釈を補強するデータを指すこともある。標準治療を支える大規模な臨床試験の結果を指すこともあります。

現実的に、医師が言うエビデンス(統計的な正しさ)と、患者が思うエビデンス(自分の体に有効であること)にも、ズレがあるでしょう。

いずれにせよ、患者は医師がどのレベルでその「エビデンス」を使っているのか、判断することができません。標準治療のように、100人医師がいたら皆採用するものなのか、解釈が分かれるものなのか。

この「エビデンス」の見えづらさが、不安感をもたらしているのかもしれません。

だからこそ「エビデンス」を一歩引いた目で見る

医師の「解釈」が、自分に合っているとは限りません。
だからこそ自分自身の「納得のいかない気持ち」を「エビデンス」でおさえこむのは、少しもったいないような気がします。

私の場合、闘病生活2~3年目の頃。「こんな生活はいつまで続くのか」と不安を覚え、他の後遺症外来を巡ったり、WHOのガイドラインや、ネットで共有される最新の「エビデンス」を漁った時期がありました。

最終的にどうなったか。長年続けた「今の治療」が、いかに信頼に足るかを突き付けられ、より主治医を信頼できるようになりました(笑)
一方で、新しい「エビデンス」に出会い、それをきっかけに主治医に今の気持ちと、新しい治療について相談することも出来ました。

「エビデンスがあるから」
それを伝家の宝刀のように思う必要はありません。

患者として、もし今の治療に不安があるのであれば、まずはその気持ちを認めてあげること。もちろん、別の「解釈」がないか探索してみるのは大賛成です。今後のことは、それから考えれば良いのです。


患者的「エビデンス」の使いどころ:決め手ではなく「ふるい」として活用する

さて、患者にとって「検証できない」と、一歩引かれてしまった「エビデンス」。その使いどころは、実は診察室の外にあるのではないでしょうか。
というのも、「エビデンスがある」という事実は、健康詐欺など「怪しい治療」を遠ざけるふるいになるからです。

療養患者が直面する情報の波

コロナ後遺症は、特効薬のない、現在進行形でメカニズムが解明されている病気です。それゆえ、インターネットでは研究者から患者まで、日々さまざまな情報が発信・交換されています。

そうした「情報の波」は、標準治療が確立している病気でも、例外ではありません。乳がんに罹患した梅宮アンナさんはこのように振り返ります。

芸能界で生きていると、病気を公表したとたんに『この水でがんが治った』『特別な治療法がある』みたいな無数の『善意』が寄せられるんです。私のところにも事務所に謎の液体や本、『聴くと治る曲』まで送られてきました。心が弱っているときって、そうしたものが魅力的な救いに見えてしまう。

文藝春秋PLUS,
【乳がん】がん家系だからこそ「標準治療」のメッセージ,梅宮アンナ,
https://bunshun.jp/bungeishunju/articles/h11743
(参照:2026-08-21)

そんなものが魅力的に見えるなんて、バカバカしいと思うでしょうか?

もし健康であるならば、そうかもしれません。しかし、今の医療の力では、自分の命がどうなるかもわからない。そんな現実に直面した時の人の心とは、想像以上に乱れるものです。

梅宮アンナさんの記事を読んで、
病気は違っても「弱っているときほど、もっともらしい情報にすがりたくなる」というのは、あらゆる療養患者が通る道なのかもしれない。そう思いました。

さて、そんな時に「もっともらしい情報」の防波堤になるのが、エビデンスです。
梅宮アンナさんは、自由診療や免疫療法が悪いと言いたいわけではないと前置きした上で、「標準治療」を選択した理由を以下のように語ります。

何より科学的なエビデンスがない治療は嫌だったし、世の中の多くの医者が推奨している標準治療を信頼すべきだとも思った。

婦人公論.jp,梅宮アンナが乳がんの標準治療を選んだ理由。「科学的なエビデンス」を重視したのは…,梅宮アンナ,https://fujinkoron.jp/articles/-/22751(参照:2026-08-21)

残念ながらコロナ後遺症は標準治療が確立していません。
だからといって、当事者としては、

「じゃあ毎日辛くても仕方ないね」

とはなりません。
患者は「何もできていない」ことに焦りを覚えたり、「何かできることはないか」と、新たな治療法について日々情報交換をしたりしています。

標準治療が確立していなくても、研究実績、臨床データなど「エビデンス」の有無は非常に有効です。それは治療の「有効性」を証明してくれなくても、「怪しい治療」をふるい落とすための、材料を与えてくれます。


納得することを、甘く見ない――経営学における「納得感」という戦略

医師の言葉と天秤にかけたとき、患者の「納得感」の地位は、なんとなく低く感じてしまいます。

それは医療現場に限ったことではありません。
仕事で何かしらの提案に携わる時、ロジックがどうだとか、データドリブン(Data Driven)なのかとか、「エビデンス」周りの言葉がビジネスのメインロードを闊歩しています。

しかし、自分の仕事に当てはめてみると、その「エビデンス」がいかに不完全か、気づくのではないでしょうか。例えば、

  • こちらのストーリーラインに沿って「エビデンス」を使うことがある。

  • データとロジックで磨き上げられた提案が、必ずしも顧客に響くわけではない。

  • 「理に適っている」はずのシステムが、現場では使われない。更に悪いことに、多くの人が「なんとなく」それを予見していたりする。

  • 同じ商品なのに「この営業さんから、買いたい(買いたくない)」という現象が起きる。

この陥穽をつくように、経営学者の入山教授は、2026年8月3日の日経新聞の記事で、経営学のセンスメイキング理論において「腹落ちする」あるいは「納得する」ことは、非常に重要な考え方であると指摘します。
とりわけ「正解がない状況」を切り拓くときに威力を発揮するそうで、以下のように付け加えます。

今の時代は変化が激しく何が正解かわかりにくい。そんな状況で(…)一番やってはいけないこと(…)は「正確な分析による将来予測に頼ること」だ。
予測不可能な時代なのだから、正確な予測をしようとしても、どうせ前提条件は崩れてしまう。

日本経済新聞,2026-08-03,朝刊,p.21.

もちろん企業の組織論と、個人の闘病生活を同列に扱うことはできません。
しかし「正解の見えない状況」において、「納得感」が「エビデンス」に負けず劣らず力を発揮することがある。

それは、医師の提案する治療に対して、納得感を求めることはわがままなどではない。不確実な病と向き合うための立派な戦略の1つなのだと、患者に勇気を与えてくれるのではないでしょうか。


今回参照した記事はこちら👇️
多様な人材の組織、大事なのは「腹に落ちること」 入山章栄氏:日本経済

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