歳をとるほどに人間が完成形になっていく、という幻想 | 老後の暮らしを整える
近所にある人気レストランのスタッフとして働いていて、私が庭仕事をしているときにあいさつをするようになり、話をするようになり、親しくなった若者がいる。
そのお店での修行を終えて、彼は東京に戻った。海外で働く夢があり、今は語学と、老舗と呼ばれるレストランでの修行をがんばっている。
彼が東京に戻ってから、もう2年、3年くらいになるだろうか。大好きなひととうまくいかなくなった、と泣きながら電話がかかってきたり、時折、ふらりと我が家に遊びに来たりする。
彼の話はどれもこれも、私にとってはまぶしくて、思うようにいかないと、ぷんすかしている様子すら、なんだかうらやましく感じてしまう。
先日も、彼がふらりとうちに遊びに来て、ありあわせのもので一緒にごはんを食べていると、彼が憤慨した様子で話し始めた。
「うちの親たちが、いい歳してあまりにバカすぎて、本当に呆れている」
という。
話を聞くと、お父さんがとったある行動により、お母さんが怒り、わりと長期にわたって、家の中の空気がだいぶ気まずくなっているという。ご実家は、ご夫婦で商売をされているので、お仕事的にもよろしくない状況のようだ。
確かに、お父さんの行動はちょっと軽率だったかもしれない。
でも、こんなこと、ふつうに起きることだよね?
夫婦生活なんて、こんなことの連続だよね?
彼の言い分は、お父さんもダメだけど、お母さんもおとなげない。ふたりとも、いい歳して、賢くなさすぎて、うんざりする、という。
彼のお父さん、お母さんは私と同年代、もしかしたら、私より少し年下かもしれない。
「あのねぇ、いい歳してって、みんないうけれど、にんげん、歳をとったら賢くなるって思っちゃダメだよ」
と、私は全50代、60代、それ以上の方々を代表して、力強く言った。
私の体験的には、40代半ばくらいをピークに、にんげんはどんどんぽんこつになっていく、というのが正直な印象。
「50代なんて、当社比20%減の能力ですよ」
私の力説に、彼は拍子抜けしたような、え?という顔をしている。
若者よ、50代になったあなたの親たちは、まだ自覚がないかもしれないけれど、以前よりは賢くなっていないと思う。なんなら、少しずつ少しずつポンコツになっていく、と思ってくれたほうが正しいと思う。
なにか、うまくいかないことがあるのなら、上手にサポートしてほしい。家の中が気まずくなっているのなら、うまーく交通整理をしてほしい。
話のふろしきを広げてしまうけれど、日本の経済成長について、失われた30年とかいわれるけど、私は、老害こそが最大の原因、だと思っている。
元気な老人が増えたことで、現役を続ける老人が増えた。これはすばらしいことだと思う。
ただ、年齢を重ねることでの経験値は増えても、判断力、決断力は明らかに低下していく、というのが私自身の実感であり、親や親族、友人、知人を見ていても、そう大差はないように思う。
老人が働き続けることはすばらしいと思うけれど、重要な判断をする地位に居座り続けることについては、疑問を感じている。
認知症と加齢のメカニズムについても、まだまだ解明しきれていないことも多く、認知機能の低下がいつから、何歳からはじまっているのか?ということも明らかにはされていない。
けれど、生活者として、判断力、決断力が低下していると思う年代のひとが、ビジネスの世界で、正しい判断、決断ができるのだろうか。
もちろん、個人差の大きさは無視できない。
でも、老害の大きさだって、無視できないのでは?
老人はバカだ、ダメだ、といいたいわけではない。
誰にだって、得意、不得意なことはある。
こどもの頃だって、かけっこの速い子もいれば、絵が上手な子もいる。おしゃべり好きな子、静かに本を読むのが好きな子、歌やダンスが好きな子、まさに十人十色。
年代によって、得意、不得意なことも、でてくるよねという話、だと思ってほしい。
歳をとったら人間がより完成形に近づいてくる、というのは本当に幻想だと思う。
敬老思想とか、儒教的な考えかたとかによる、年齢を重ねたひとを大切にする、という話と、年齢を重ねるとひとが立派になる、という話がごっちゃになっていないか?
前者については、私も大切にしたい考え方と思うが、後者は、はっきりいって大きな勘違いだ、と思う。
何十年も一生懸命働いて、家族を養って、社会を支えてきたひとが、だんだんに人生を収束させていくというステージで、にんげんとして立派である必要なんて、ある?
心身ともにくたびれていて当然だし、わがままだったり、自分勝手でもしかたないんじゃない?
生物として、弱っていくことのほうが自然の摂理であって、どこに強がる必要があるんだろう。
自分の弱さを隠すことなく、カジュアルに助けを求められるようになりたいと思うし、逆に、自分の得意なことで、困っているひとを助けられたらいいな、とも思う。
せっかくひとそれぞれに得意、不得意が違うのだから、お互いに助け合える社会であってほしいと、強く願っている。
