哲学エンターテイメント『思想戦争勃発、戦場からのレポート』ーー序曲:アンネ・フランクとロリータ
このシリーズは〈哲学エンターテイメント〉の実験である。哲学を知識として大学の講義のように解説するのではなく、むしろ哲学者たちの人間くさい生の声をキャラクター化し、その衝突や対話を通じて、現実の諸問題をスリリングかつドラマティックに描き出す試みだ。思想のレヴェルはけっして落とさない。ゲラゲラ笑って賢くなれる。未邦訳の哲学書の概要さえ自然と頭に入り、その上21世紀の思想地図まで手に入る。人文学徒にとって「破格」の連載である。このテキストは「20世紀の二つの監禁の物語」から始まり、「21世紀の戦争と平和」へと展開するだろうか? それとも? いずれにせよ、このテキストが描こうとするのは、いま始まったばかりの〈思想戦争〉の地図なのである。私たちが生き延びるための。
序曲 ― アンネとロリータの影で
私のこの論考は突拍子もないところから始まる。
ここ半世紀、日本ではロリータ・ファッションに夢中な少女たちや元少女たちがいる。フリルやレース、リボンを多用し、ウエストを絞って、ふわりと膨らんだスカートを身にまとう。原宿竹下通りには、白い靴下と黒のレース傘、アニメ声のまま現実を歩く少女たちがスマホを握りしめ、TikTokの画面を覗きながら自撮りしている。そうかとおもえば、夜の新宿で、整形のカネを作るためガールズ・バーの客引きをする少女がいる。はたまた、私鉄沿線の中華料理屋では、ロボットが料理を運び、サラリーマンたちが生ビールを飲みながら、麻婆豆腐てやレバニラ炒め定食を食べている。そうかとおもえば、タクシーの後部座席には怪しげな再生医療の広告が貼りつけてある。これらすべてが同じ都市のなかに同居している。
ロリータ・ドレスのフリルの裾や、はたまた夜に煌めくネオンサインの影に潜むのは、ナボコフの小説『ロリータ』の「無駄に文学的教養に満ちあふれた変態中年男ハンバート・ハンバートの告白」と、アンネ・フランクの「隠れ家の日記」とが奇妙に重なるもうひとつの影だ。え? それはいったいどういうこと? あなたは呆れるかもしれない。しかし、考えてみて欲しい。アンネ・フランクは、あたりまえの生活から切り離され、狭い空間に閉じ込められ、社会の視線から隔絶されながら、日記を書き続けることでなんとか自分の精神を護ろうとする。ロリータに至っては、中年男ハンバート・ハンバートの欲望によって日常を奪われ、逃げ場のない旅へと連れまわされる。なお、ウラジーミル・ナボコフの妻ヴェーラはユダヤ系ロシア人であり、ナボコフは最初の亡命先ヨーロッパにおいて、最悪のサディストであるヒトラー政権への恐怖を内面化していたことは疑い得ない。
ここで私たちは気づく。ふたつのテキストはいずれも、「20世紀の二つの監禁の物語」なのである。すなわち、変態中年男によって拉致された少女ロリータは、あろうことか、もうひとりのアンネ・フランクなのである。しかも、それどころか、私たち自身もまたアンネであり、同時にロリータなのではないか。私たちは、いま、AIという新しいサディストがこしらえた檻の中に、しずかに押し込められつつある。
良いサディストは、マゾヒストの欲望に奉仕する存在である。他方、最悪のサディストは、自らの欲望に夢中になるあまり、相手の主体性を破壊してしまう。ヒトラーやハンバート・ハンバートのように。ただし、AIの冷酷さは快楽のためではない。ただひたすら計算、最適化、監視、そして排除がなされる。AIは私たちの職を奪い、選択肢を奪い、やがては声そのものを奪ってしまうのだ。
では、哲学知はこの暴力の構造にどのように立ち向かえるだろう?
ここから始まるのが、私たちの「戦争譜」なのである。
