満ちる部屋|掌編小説(#シロクマ文芸部)
――波の音。
それが聞こえ始めたのは、先週の金曜日の夜からだった。
私が住んでいるのは、海から何十キロも離れた内陸部の、鉄筋コンクリート造りのマンションの五階だ。窓を開けても、聞こえるのは国道を飛ばすトラックの走行音か、遠くの救急車のサイレンくらいだ。潮騒なんて聞こえるはずがない。
最初は、上の階の住人が環境音楽でも流しているのだろうと思っていた。波の音はリラックス効果があると言うし、最近は不眠に悩む人も多い。私も連日の残業続きで疲れていたから、むしろ心地よいBGMとして受け入れていた。
異変が起きたのは二日前。朝起きると、フローリングの床がうっすらと湿っていた。窓も閉め切り、加湿器もつけていないのに、部屋全体がじっとりと重い空気に包まれている。変だと思いながらクローゼットを開けると、お気に入りのシルクのブラウスがカビ臭く、ほんのりと磯の香りがした。
――気のせいだ。
そう自分に言い聞かせた。ここ最近、雨が多かったから、湿気がひどいだけだ、と。
しかし、波の音は夜を追うごとに大きくなっていった。
「ザザーッ……ザザーッ……」
静かなさざ波だった音は、今や荒々しい轟音に変わり、耳を澄まさなくても部屋の隅々から反響して聞こえてくる。まるで、この六畳のワンルーム全体が、巨大な巻貝の中に閉じ込められてしまったかのように。
そして昨夜。ベッドに入り、無理やり目を閉じていた私の頬に、冷たい水滴が落ちてきた。
――雨漏り?
いや、違う。ぽた、ぽたと落ちてくるその水滴を指で拭い、思わず舌先で舐めてしまった私は、全身の毛穴が粟立つのを感じた。
――しょっぱい。
はっと目を開けると、暗闇の中、天井のクロスが波の音の動きに合わせてゆらゆらと揺らめいているのが見えた。いや、天井だけではない。クローゼットも、本棚も、見慣れた家具の全てが、水底から水面を見上げているように歪んでいる。
私は慌ててサイドテーブルのスマートフォンを手に取ろうとした。しかし手が滑り、スマホは床へと落ちていった。「ガツン」という硬い音はせず、代わりに聞こえたのは「ぽちゃん」という、深い場所へ物が沈んでいくようなくぐもった音だった。
恐怖で声も出せず、ベッドの上で膝を抱えて震えていると、波の音に混じって、ちゃぷ、ちゃぷ……と何かが水を掻き分ける音が近づいてきた。私の足首に、海藻のような、あるいは吸盤のついた何かの腕のようなものが、ゆっくりと巻き付いた。
その得体の知れない気配は、ついに私の顔の真横に到達する。
「ネェ、イキ、トメテ……」
耳元で、ぶくぶくと泡立つような、低い女の声がした。
今、私の部屋は、完全に満ち潮を迎えている。
(了)
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