枠線のない世界へ|掌編小説(#シロクマ文芸部)
――自由帳。
段ボール箱の底から引っ張り出したそれは、すっかり表紙の色が褪せ、角が丸く擦り切れていた。表紙には、小学生だった私が書いた「じゆうちょう」という歪なひらがなと、謎の怪獣の落書きが偉そうに陣取っている。
引っ越しの準備の手を止め、私は床にあぐらをかいてそのページをめくった。パラパラと響く乾いた紙の音と共に、過去の私が勢いよく飛び出してくる。
見開きいっぱいに描かれた、迷路のような地下帝国の地図。絶対に倒せない設定らしい、腕が六本あるドラゴンの絵。そして、脈絡もなく突然始まる「うちゅうじんとのたたかい」というタイトルの短い物語。ページをめくるごとに、当時の私がどれだけ無軌道で、ルールなどお構いなしに頭の中を爆発させていたかが痛いほど伝わってくる。はみ出したクレヨンの跡や、強すぎる筆圧で裏のページまででこぼこになっている手触りが、その熱量を証明していた。
ふと、顔を上げて周囲を見渡す。今の私の部屋には、無駄なものがあまりない。仕事用のノートPC、スケジュールがびっしりと書き込まれた手帳、そして、寸分の狂いもなく、規格通りに作られた家具たち。大人になるにつれて、私は「自由」を少しずつ削ぎ落としてきたのだと思う。枠線のあるノートを使い、罫線に沿って文字を書き、はみ出さないように、空気を読みながら日々をこなしている。
あの頃の私は、この白い紙の世界で全能の神だった。空を緑色に塗っても、太陽を三つ描いても、誰にも怒られなかった。
「今の私がこの自由帳を渡されたら、何を描くだろう」
明日のタスクリストか、今月の収支計算か。そんなつまらない想像をして、思わず自嘲気味に笑ってしまった。
ページを進めると、最後の数ページは白紙のまま残されていた。私はペン立てから黒いボールペンを一本抜き取り、その最後の真っ白なページに向き合った。じっと紙の白さを見つめていると、妙な緊張感が指先を伝う。枠線も正解もない空間が、今の私には少しだけ恐ろしく感じられたのだ。
深呼吸をして、ペン先を紙に落とす。
最初はためらいがちに。そして、少しずつ手首の力を抜いて、ぐちゃぐちゃと円を描くように線を走らせてみた。意味なんてない。ただの黒いインクと線の絡まりだ。でも、不思議と胸のつかえが取れ、息がしやすくなった気がした。
――自由帳。
私はその無意味な線の隣に、今度は漢字でそう書き込んだ。歪な線で宇宙人を描いていた頃の自分には到底敵わないけれど、枠線をはみ出す練習くらいなら、明日からまた始めてみよう。そう思いながら、私はゆっくりとノートを閉じた。
(了)
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