八月三十一日の片道切符|掌編小説(#風まかせ文芸部)
八月三十一日の午後五時半過ぎ。ぬるい風が、蝉の最後の鳴き声をさらっていく。
僕と絵麻は町はずれの旧道にある、錆びついたバス停のベンチに並んで座っていた。時刻表の文字は雨風で擦り切れ、とっくに廃線になっているはずのその場所に、絵麻はなぜか僕を呼び出した。
「ねぇ、知ってる? 八月の最後の日の夕方、ここには夏を回収するバスが来るんだよ?」
絵麻が唐突に言った。いつもの冗談だと思って「何だよそれ」と笑い飛ばそうとしたが、夕日に照らされた彼女の横顔があまりにも真剣で、言葉が喉の奥でつっかえた。急に、絵麻がどこか遠くへ行ってしまうような恐怖に駆られて、思わず「やめろよ……」と呟いた。
西の空が紫から深い群青へと変わると、道路の向こうから乾いたエンジン音が響いた。ヘッドライトの光が、ゆっくりと僕たちの方へと近づいてくる。やってきたのは、車体がうっすらと光る古い型のバスだった。
静かにドアが開き、ひんやりとした風が車内から吹き抜ける。その風には、プールろ過装置の消毒液の匂い、夕立のあとのアスファルトから漂う匂い、そして、手持ち花火の煙の匂いが混ざっていた。
「本当だったんだ……」
僕が息を呑むと、絵麻はベンチからゆっくりと立ち上がり、バスのステップへと一歩踏み出した。
「このバスに乗るとね、ずっと終わらない夏に行けるの。宿題も、お別れもない場所に」
絵麻の足元が、夕闇の中に溶けていく。
「行くな!」
そう叫んで手を伸ばし、彼女の制服の袖を掴もうとした。でも、僕の指先は空を切り、彼女の輪郭をすり抜けてしまった。絵麻は驚いたように目を丸くし、それから、今まで見たことがないほど寂しげで、美しい笑顔を浮かべた。
「ごめんね。私は、ここで降りられないみたい」
プシューと音を立てて、無情にもドアが閉まる。窓ガラス越しに、絵麻が何かを言ったような気がしたが、エンジン音にかき消されて聞こえなかった。ただ、小さく手を振る彼女の姿だけが、僕の目に焼き付いた。
バスは夜の闇の奥へと滑り出し、やがて群青の空へと消えていく。僕の周りには、秋の始まりを告げる冷たい風だけが残されていた。
空を見上げると、一番星がひとつ、静かに輝いている。
僕の夏は彼女を乗せたまま、二度と帰ってこない終着点へと旅立ってしまった。
(了)
iさんの「風まかせ文芸部」に参加しました。
お題は「夏の終着点」です。
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